
中学三年の時、同級生が東大の近くにある郁文館高校を受験することになった。願書を提出に行くにあたり、安田講堂事件の直後で物騒だから付き合ってくれと言われた。お茶の水で下車し、40分かけて歩いた。歩道は至る所で土がむき出しになっていた。コンクリート板が学生の投石に使われたためである。
郁文館高校に着いて受付に願書を提出すると、事務員が去年のテスト問題を購入するよう勧めてきた。その様子を後ろで見ていて、思わず「あこぎな商売しやがって」と呟いてしまった。それが聞こえたらしく、「なんだ、お前は」と烈火のごとく怒られた。帰る道々、友人は意気消沈し、「絶対に落ちるよ、落ちたらお前のせいだ、どうしてくれるんだ」とブツブツ言い出した。友人の愚痴は止まらず、「お前なんか誘うんじゃなかった、高校に行けなかったどうしてくれるんだ」とお茶の水に戻るまで延々と続いた。
結局、友人は郁文館高校には行かず、都立の商業高校に進学した。この頃の都立高校はステータスが高く、都立高校に進学することは何よりの親孝行と言われていた。東大の合格者数でも都立高校が上位を占め、とりわけ、日比谷、西、戸山、新宿、小石川、両国、小山台、上野といった名門都立校には、東大を目指す受験生が殺到した。
しかし、1967年に導入された学校群制度によって状況は一変した。学校群制度とは、いくつかの学校をグループ化(学区)し、その中で学力が平均になるように合格者を振り分ける方法である。受験生は、学区を選択できても、いままでのように希望の高校を受験することができなくなった。結果、都立高の学力は平均化するどころか、著しく低下し、東大合格者戦線からも軒並み脱落していった。
両国高校に入学した。このとき、3年生は旧制度で入学した生徒で、2年生と1年生は学校群制度による生徒だった。教師の中には、質が落ちたとあからさまに口にする奴もいた。夏休みには教師が手弁当で4週間の補習授業を行っていた。東大合格者ランキングで上位を取るためである。それが、3年生になったときには、補習授業は1週間に短縮されていた。学校群になって、生徒以上に教師のモチベーションも低下していたのである。学校群制度は2003年に廃止された。東京都は、日比谷や西を進学指導重点校に指定し、復活を後押ししている。その後も、進学指導重点校を少しづつ増やしているが、その中に両国の名前はない。
記:2020年04月