
2011年8月
福島第一原発の事故は、すべての電源が失われる全電源喪失という状況が長時間にわたって続いたことが最大の問題だった。原子炉に冷却水を送り込むポンプの電源が一つでも生き残っていれば、事故は回避できた可能性があった。予備電源の脆弱性は早くから指摘されており、高台への移転が勧告されていたにもかかわらず、東京電力はわずかな利益のために無視したのである。事故後の政府の対応も問題だらけだった。放射能が拡散している事実をひた隠しにし、メルトダウンさえもなかなか公表しなかった。国民の健康被害よりも事故をできるだけ小さく見せることを優先したのである。犯罪と言っていい。そして今、場当たり的な事故処理は限界に達し、汚染水を海に流したいと言い出した。いずれ安全性をでっちあげ、福島の海を死の海に変えてしまうに違いない。原発に係わる人間はどうしてかくも胡散臭いのだろう。
3.11では原発だけでなく火力発電所も被災した。結果、深刻な電力不足に陥り、前代未聞の計画停電が実施された。茅ヶ崎は記憶しているだけでも4回も実施され、うち2回は夜間だった。電力不足は容易に解消せず、出勤カレンダーや夏休みの日程にも影響がでた。この年の夏休みは、海の家が営業を終了する8月の終わりからになった。腹立たしくて、同じ日程で夏休みをとるT君、F君を誘って、函館に行くことにした。函館の夜景で電力不足の憂さを晴らしたかったのである。
8月27日(土)9:00
穏やかな青森の夏
2泊3日の旅は青森から始めた。羽田を7時35分に出発し、青森空港には定刻の8時55分に到着した。抜けるような青空で、夏の暑さは東京とあまり変わらなかった。震災の影響もなく、とても平穏で、東京の息苦しさから解放された気分だった。
レンタカーを借りると、最初の観光地・弘前城に向かった。レンタカーの後部座席から、田園風景とその背後にそびえる山を見たのを憶えている。あの時は岩木山だと思っていたが、今確認すると、浪岡あたりで見える梵珠山(ぼんじゅさん)だったようである。ここは信仰の山で、かつては登拝する人々が絶えなかったという。梵珠山の東方10kmには三内丸山遺跡がある。
8月27日(土)10:00
現存12天守のひとつ
津軽藩ねぷた村に到着した。ここに車を停め、弘前城の北門(亀甲門)に向かった。もともとは、北門が正門とされていたが、やがて追手門が正門となり、北門は裏門の扱いとなった。門の前には、国指定重要文化財の石場家住宅がある。江戸時代中期の建築と推定され、藩政時代からの姿をほぼそのまま留めている。なかなかいい風情だ。
北門の先は広場のようになっていた。桜祭りのようなイベントの際には露店が立つらしい。しばらく歩くと、東口券売場の前に来た。天守閣のある弘前城本丸は有料だった。
北の廓を抜けて、本丸跡に登ると、右手に岩木山を一望できる場所があった。津軽富士と呼ばれる名峰だが、残念ながら頂上は雲に覆われていた。
普通の城は本丸跡に登ったところで天守閣が見えてくるものだが、ここは違った。想像していたよりも随分小さかった。弘前城は江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。本丸唯一の現存建築である天守は層塔型3重3階の建物で、高さは14メートルしかなく、現存する三重天守の中で最も低い。
天守は1810年に建設されたもので、名目上はロシア船監視のための櫓ということになっていた。城外側にあたる東・南面には切妻破風を2重に重ねて出窓や出張を設けるなど華美な作りだが、城内側にあたる西・北面は連子窓をただ単調に並べただけである。内部も普通の櫓と同等の木材が用いられ、簡素な構造になっている。見えないところには金をかけない。合理的というよりも貧乏くさく感じてしまう。
8月27日(土)10:40
定番の撮影スポット
本丸跡を出ると、内濠を隔て、本丸と二の丸に架かる赤い橋がある。下乗橋(げじょうばし)という。藩政時代、この橋を馬に乗って渡れたのは藩主のみで、藩士は馬から降りるよう定められていた。それが名前の由来らしい。弘前城と橋と内濠と桜が揃って撮影できる人気の場所である。こちらから見える天守は確かに堂々としている。
弘前公園の正面玄関が追手門である。裏門から入場したので、正面玄関から退場することになった。
8月27日(土)11:00
弘前のお祭り
追手門広場の一角に弘前市観光館がある。巨大な観光案内所で、1階には弘前ねぷたが展示されていた。青森ねぶたが人形灯籠なのに対して、弘前ねぷたは扇形のイメージがある。入館記念に展示されていたのは意外にも人形灯籠だった。弘前ねぷたもいろいろあるようだ。
弘前市観光記念館の裏に、山車展示館がある。昔の藩主が八幡宮祭礼のために各町内に山車を造らせたという。明治15年以降、弘前八幡宮祭礼が途絶えてしまってから各町内の山車も散逸してしまい、現存しているのはここで保管している7台だけらしい。また、ねぷたまつりで使用する大太鼓も展示されていた。
8月27日(土)11:20
弘前の文明開化
弘前には、明治から大正期にかけての建造物が数多く残っている。明治以降、教育に力を入れ、多くの外国人教師を招いた。そのことで早くからキリスト教も伝わり、文明開化の波にのって独特の洋館が造られたらしい。
弘前市立観光館のすぐそばにあるのが旧弘前市立図書館である。明治時代の日露戦争の戦勝記念に建てられ、左右両端に八角塔をもつルネサンス様式の外観が特徴的。外壁を漆喰で塗るなど日本の伝統技法を取り入れ、昭和6年まで市民図書館として利用されていた。
その隣にあるのが、旧東奥義塾外人教師館。県内初の私学校で英語教師として招かれた外国人の住居として使われていた。現在は外国人一家が暮らしていた当時の様子を再現している。また、1階にはフレンチレストラン「サロン・ド・カフェ・アンジュ」が営業している。2階にある書斎や寝室などを見学したあと、「サロン・ド・カフェ・アンジュ」で昼食をとった。食べたものは憶えていない。
追手門広場のすぐ近くに青森銀行記念館がある。青森銀行は、明治12年に設立された全国で59番目の国立銀行で、青森県では初めての銀行だった。明治37年に建てられたこの建物は、太宰治の生家「斜陽館」などを手掛けた堀江佐吉が設計した。国の重要文化財に指定されている。
御堀端を歩いて、津軽藩ねぷた村に戻った。施設の見学はせず、お土産だけ買って、弘前を後にした。
8月27日(土)13:00
田んぼの芸術
田んぼアートで有名な田舎館村に行った。今では全国的になった田んぼアートも、田舎館村が村おこしで始めたのが最初だった。一日の長があり、ここの田んぼアートはどこよりも見事である。第19回目のこの年のテーマは竹取物語だった。役場の一角に田舎館村展望台がある。天守閣のある奇妙な建物で、田んぼアートはここから綺麗に見えるようにデザインされている。最初に驚いたのはその大きさだった。絵画のような精緻な表現には感嘆するしかなかった。稲もいい感じに色づき、評判通りの素晴らしさだった。
8月27日(土)13:30
江戸時代の街並み
黒石では市役所に車を停め、中町のこみせ通りまで歩いた。江戸時代の風情を残す長さ100mのこみせの中に、国の重要文化財「高橋家住宅」を中心に造り酒屋や蔵などの民家が並んでいる。平成17年に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。
こみせの下を一通り歩いた後、津軽こみせ駅に入った。ここは土産物の販売の他、軽食コーナーもあり、14時からは津軽三味線の生演奏を聞くことができる。黒石名物のつゆ焼きそばを食べたあと、三味線の実演を聞いた。つゆ焼きそばの味はよく憶えていないが、「普通の焼きそばでいいのに」と思ったことは憶えている。津軽三味線の代表曲「津軽じょんがら節」は黒石が発祥で、譜面はなく、すべてアドリブでひくらしい。打楽器のような撥使いで、音に切れ目がなく、最後まで聞くと結構疲れた。
8月27日(土)16:30
廃墟の町
黒石から十和田湖に向かった。十和田湖の観光客は2004年の300万人をピークに、その後は減少を続き、今では100万人にまで落ち込んでいる。宿泊施設や土産物屋が集中する休屋地区は休廃業が相次ぎ、廃墟化が進んでいる。この日宿泊した「十和田観光ホテル」は休屋の中心に位置し、湖を見渡すレイクビューが人気のホテルだった。こんなホテルでさえ、2014年5月に倒産してしまった。鬼怒川と同じような状況だ。
そういえば、三沢駅から十和田市駅までを結んでいた十和田観光電鉄線も2012年4月に廃線になった。
湖上には観光用の遊覧船が運航している。この日乗船した「十和田湖観光汽船」も、観光客の減少により、2013年に経営破綻した。元従業員が十和田湖遊覧船企業組合を設立して運航を続けたが、これも2016年に破綻。今は十和田観光電鉄が引継ぎ、なんとか航路が維持されている。
十和田湖の凋落に東日本大震災が拍車をかけたのは疑いようがない。どうやら、我々は崩壊前夜に訪問したようである。
16時発の遊覧船に乗船した。休屋から出て中湖を遊覧し休屋に戻る50分のコースである。湖の南岸から牛の角のように突出する二つの半島に囲まれたところが中湖で、湖面は穏やかで、美しい藍色を呈していた。
湖畔には、高村光太郎作のブロンズ像「乙女の像」がある。船からは遠すぎてよく見えなかったので、下船したあと、湖畔を歩いた。遊歩道が整備されており、とても雰囲気がよかった。
8月28日(日)11:30
日本最大級の縄文集落跡
朝8時にチェックアウトし、発荷峠展望台に行った。ここは数ある展望台の中でも最高のビューポイントと言われる場所で、十和田湖だけでなく、八甲田連邦まで眺望できるらしい。しかし、少し時間が早すぎたようで、霧に覆われて何も見えなかった。
諦めて、三内丸山遺跡に向かった。今から約5500年前~4000年前の縄文時代の大集落跡で、約40ヘクタールの広大な土地に、竪穴住居、高床式倉庫の他に、10棟以上の大型竪穴住居や約780軒の住居跡、大型掘立柱建物跡(六本柱建物)が見つかっている。「縄文時遊館」という入口施設には、土器などの出土品の展示のほかに、人形を用いて竪穴住居内での暮らしのようすをわかりやすく説明している。
遺構の中で最も重要視されているのが六本柱建物跡だ。柱穴の間隔、幅、深さが統一されていて、当時すでに測量の技術が存在していたことを示す重要な証拠になっている。建物は祭祀用に使われたと思われているが、実際のところはよく分かっていない。また、栗などの樹木やゴボウ、マメなどの栽培植物も出土しており、農業が行われていたことも分かっている。数百人が暮らしていたと思われる集落が消滅してしまった理由だけは謎らしい。
8月28日(日)11:30
北海道へ
三内丸山遺跡で青森の予定をすべて終え、いよいよ函館に向かう。
レンタカーを返却し、新青森駅に行った。函館へは新青森発の特急スーパー白鳥に乗車した。青森駅で折り返し、津軽海峡線(津軽線・海峡線・江差線・函館本線)を使って、約2時間で函館に到着した。途中、青函トンネルを通過したが、今では貴重な経験になった。というのも、2016年(平成28年)春、北海道新幹線の開業に伴い、スーパー白鳥は同年3月21日を最後に運行を終了。今、青函トンネル区間を走れるのは、新幹線と貨物列車のみになった。
8月28日(日)14:00
函館ベイエリア
函館もよく晴れて、夜景を見るにはまたとない天気だった。宿は「東横イン函館朝市」で、フロントに荷物を預けてから市内観光に出発した。ベイエリアを見学したあと、元町を散策する予定だった。函館駅前で市電に乗り、函館ベイエリアの最寄り駅である十字街で下車した。
何故か、目の前には坂本龍馬記念館があり、坂本龍馬の像が立っている。竜馬自身は函館には来ていないが、甥(坂本直)の一家が函館に移住したらしい。縁はあっても、函館に竜馬というのは違和感がある。
坂本龍馬記念館はパスして、ベイエリアの象徴的な存在である三角屋根の赤レンガ倉庫群に行った。
いくつかある建物の中で、「BAYはこだて」と呼ばれる建物に入った。ここは、明治15年頃に築造された運河の上に橋を渡した2棟建ての複合施設である。店内はファッションやジュエリー、アクセサリーの店が多く、楽しめたのは函館オルゴール堂ぐらいだった。
この日の遅い昼食は、赤レンガ倉庫の店ではなく、近くにある「ラッキーピエロ」に入った。道南地区しか展開していないが、道南地区ではマクドナルドをも凌ぐ最大のハンバーガーチェーンらしい。その1号店がこの「ベイエリア本店」である。ブランコ席や木馬があったりする奇妙な店で、一番人気の「チャイニーズチキンバーガー」を頼んだ。普通に美味かった。
8月28日(日)15:00
異国情緒
函館(箱館)は、日本で最初に開港された港町である。函館山の麓の高台に外国人が居住し、周辺に領事館、教会、寺院などが建設された。今は元町と呼ばれ、異国情緒漂う函館の代表的な観光エリアになっている。
最初に行ったのが、函館ハリストス正教会。日本における正教会伝道の始まりの場所である。邸内を散策したあと、聖堂「主の復活聖堂」の中を見学した。
キリスト教にも諸派があり、代表的なものが、カトリック、プロテスタント、正教会である。キリスト教の日本への最初の伝来は、1549年のカトリック教会の修道士、フランシスコ・ザビエルによる布教だった。幕末になって正教会が日本に進出し、その場所がこの函館ハリストス正教会なのである。ロシア領事のゴシケヴィッチが領事館内に聖堂を建てたのが源流され、カトリックの教会とは雰囲気が違う。
元町は函館山の麓にあるため坂が多い。代表格が、石畳の道が海に向かって真っすぐ伸びる八幡坂である。函館の観光ポスターにも使われる定番のビューポイントだが、実際に立ってみると、街路樹が邪魔で、海に浮かぶ摩周丸の姿がよく見えなかった。背後の高台に函館西高校があり、おそらく、観光ポスターはここの校庭から撮影したに違いない。
元町公園は、江戸末期には幕府の箱館奉行所、明治時代には開拓使函館支庁、函館県庁、北海道庁函館支庁が置かれて、政治の中心地だった。現在、残っている施設は、旧北海道庁函館支庁庁舎と旧開拓使函館支庁書籍庫の2つだけである。旧北海道庁函館支庁庁舎は観光案内所として使われている。以前は、2階が函館市写真歴史館となっていたが、今は廃止された。
旧北海道庁函館支庁庁舎は外観を見ただけで、中には入らなかった。この場所から海を一望できるが、夏の暑さのせいで少しぼんやりしていた。むしろ、函館山を背景にした旧北海道庁函館支庁庁舎のほうが絵になる。
8月28日(日)16:30
夕方の函館朝市
16時に東横イン函館朝市にチェックインした。夜景を見る時間にはまだ早いので、隣の函館朝市ひろばの中を歩いてみた。この時間はほとんどの店が閉店していた。飲食店が並ぶどんぶり横丁市場も人はまばらで、やはり時間が悪かったようだ。観光の前に覗いていれば、活気ある様子が見れたかもしれなかった。
宿の隣にある「回転すし新村」で、早めの夕食を取った。回らない寿司屋で、生ビールのついたセットメニューを頼んだような気がするが、よく覚えていない。
8月28日(日)19:00
100万ドルの夜景
函館駅発18時20分の函館山登山バスに乗車した。函館山まではバスで30分の距離である。ホテルの前にもバス停はあるが、ここから乗ったのでは30分間立ちっぱなしになるので、始発のバス停に行った。すでに行列ができており、なんとか座れたものの、T君とF君は座ることができなかった。函館山登山道路に入り、木立を抜けて夜景が見えると、大きな歓声が上がった。函館山展望台に登ったのは19時、すっかり日も落ちて、鮮やかな夜景が目の前に現れた。節電が推奨されていて、例年よりも光量が少ないという話だったが、十分綺麗で、「ざまあみろ」と叫びたくなった。
函館山からの帰りは大変だった。ロープウェイ乗場は大変な混雑で、ようやく下山してみれば、駅行きのシャトルバスにも大行列ができていた。バスは諦めて、市電の十字街駅まで長い下り坂をダラダラと歩いた。宿に戻った時は21時なっていた。
宿の隣の居酒屋「嘉兵衛」で懇親会、その後、駅前のラーメン屋「尤敏(ゆうみん)」で塩ラーメンを食べて、長かった1日を終えた。函館朝市の近くに泊まったのに、寿司も魚は意外なほど普通だった。
8月29日(月)9:30
駒ケ岳山麓の林間コース
最終日はゴルフの予定を入れていた。ゴルフ場は大沼国際カントリークラブである。1976年開場の老舗コースで、道南の景勝地として知られる大沼公園の少し先にある。函館駅近くの日産レンタカーで車を借りた。大沼公園あたりで函館本線と並走し、背後にそびえる北海道駒ヶ岳の尖った山頂に目を奪われた。函館駅から約1時間で到着した。
モダンなクラブハウスは老朽化が著しく、古民家のような風情だった。フラットで癖のない林間コースで、コースの状態はとてもよかった。記憶に残っているホールはなく、どのようなゴルフだったのかも憶えていないが、悪い印象も残っていない。スコアがよかったせいかもしれない。
8月29日(月)16:00
旅の終わりは五稜郭
ゴルフ場の帰りに五稜郭に寄った。言わずと知れた函館を代表する観光地である。五稜郭の写真を始めて見た時、日本の建造物とは思えない幾何学的な造形に驚いたものである。ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルにしていると聞いて、なんとなく納得した記憶がある。
五稜郭タワーに登った。上から俯瞰しないかぎり、五芒星形の西洋式城郭を確認できない。しかし、五稜郭の全景をカメラに収めるには高さが足りない気がする。五稜郭は戊辰戦争の最後の舞台になった場所で、1階にはここで戦死した土方歳三のブロンズ像が置かれていた。榎本武揚の立像も展示されていたが、土方歳三に比べると扱いが小さく、いささか不満を覚えた。どう考えても、主役は榎本武揚のほうである。
五稜郭の中を散策した。中央には前年に復元されたばかりの函館奉行所があった。現代の建築では見られなくなった贅沢な資材がふんだんに使われているらしく、外観を見ただけでも豪華さは実感できた。建物の中は無料で見学できたはずだが、入らなかったように思う。
函館駅に戻った。レンタカーを返した後、駅構内のレストランで簡単な打上げをして、散会となった。F君は残りの夏休みを帯広の実家で過ごすため電車に乗り、あとの2人は空路で息苦しい東京に戻った。
(完)
計画停電を連想させるような事件が起きた。
2018年9月6日未明、北海道胆振地方で大規模な地震(最大震度7)が発生した。震源地近くに立地する北海道電力苫東厚真火力発電所が被災し、165万kWもの電力が一瞬のうちに失われた。最大の火力発電所がダメージを受けて需給のバランスが崩れたことで、ドミノ倒しのように次々と発電所が止まった。北海道のほぼ全域が停電する、ブラックアウトと呼ばれる状態に追い込まれた。
どうしてこんなことが起きるのだろう。
電気はためることができないため、必要な分だけを発電所で出力を細かく調整しながら供給する。そのバランスをみるための指標が周波数で、北海道を含む東日本では周波数を常に50ヘルツになるように制御している。需要と供給のバランスが急激に崩れて周波数が乱れると、タービンの故障やシステムの異常が起こりやすくなる。これを避けるため、電力の供給を自動的に遮断する仕組みが元々備わっているらしい。九州電力では原発を再稼働させたことで供給過剰になり、バランスをとるために太陽光発電の買い取りを止める措置をとった。この仕組みの中では、原発のために再生可能エネルギーを捨てるという本末転倒なことも起きてしまう。
計画停電もブラックアウトも再生可能エネルギーの出力抑制も、根本的な原因はどうやら電気をためておくことができないことにあるらしい。大容量の蓄電池を開発しないかぎり、この国の電力事情は解決しそうにない。
記:2018年10月