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2011年2月

奥能登


前年の秋田旅行はその後の旅行の形を大きく変えることになった。男鹿半島・入道崎での異様な体験の後、あれほど好きだった沖縄にはまったく関心が無くなり、強風にさらされる海辺の暮らしや大雪に埋もれる山間の暮らしに惹かれるようになった。その結果、「ご当地鍋を求める旅」は次第に「雪国の温泉旅行」へと変わっていった。また、行き当たりばったりの無計画旅行もやめた。事前の調査を徹底し、議論を重ね、綿密な計画を組むようになった。綿密な計画のおかげで、たとえ幹事がドタキャンしても、旅行はつつがなく実行できるようになったのである。


2月19日(土) 11:00
幹事がドタキャン

能登空港

羽田空港でひと悶着あった。
幹事のM君がスーツ姿で現れた。理由を聞けば、急な仕事で行けなくなり、預かっていた飛行機のチケットを渡すために羽田に立ち寄ったということだった。口惜しそうだったが、サラリーマンである以上いたしかたない。幹事に見送られながら旅に出るという妙な展開になった。

能登には男鹿のイメージを重ね合わせていた。いや、もっと厳しい自然環境を想像していた。しかし、この日の能登は風も穏やかで道路にも雪がなかった。それでも落胆はしなかった。何故なら、能登空港は内海の富山湾側にあり、日本海に面した輪島とは状況が違うと思ったからだ。

レンタカーはニッポンレンタカーだった。この日の宿泊先である和倉温泉に営業所があり、そこに乗り捨てができる。車種は憶えていないが、おそらくトヨタのウィッシュだったはずである。


2月19日(土) 12:00
まさかの雪景色

道の駅輪島「ふらっと訪夢」を目指した。能登空港からは車で30分の距離である。輪島に向かう沿線にはまだ鉄道の軌道跡が残っていた。輪島市内に入っても相変わらず雪は無く、風も穏やかだった。どうやら、2月とは思えない異例の観光日和であることがはっきりしてきた。普通ならこの幸運に感謝するところだが、旅行の目的が違うから正直落胆した。

七尾線の穴水 - 輪島間(輪島線)は2001年に廃線になった。輪島駅の駅舎は地元産の集成材を利用した切妻屋根の和風建築に建て替えられた。


施設内には輪島駅のプラットフォームがある。本物ではなく、モニュメントである。有名な駅看板のレプリカも設置されている。
かつて国鉄・JRの時代から次駅の空白の欄に「シベリア」と書かれるイタズラが横行したため、業を煮やした駅側が予め「シベリア」と印刷された駅看板を設置したのが由来だという。

輪島線
2001年に廃線、国鉄民営化後に第三セクターに移管された路線が廃止された初めての事例


2月19日(土) 12:30
普通だった輪島の海鮮丼

能登丼

輪島朝市の営業時間は8時から12時までである。2011年当時、ANA747便の能登空港到着は11時5分だったから、朝市には絶対に間に合わなかった。そんな事情を考慮したのだろうか、現在、ANA747便の能登空港到着は9時55分に変更されている。

能登丼というのがある。奥能登2市2町(珠洲市、輪島市、能登町、穴水町)の店舗が提供する地元素材を使ったオリジナル丼である。国道249号線沿いにある「やぶ新橋店」も能登丼を提供している。蕎麦、海鮮、中華、洋食、なんでもありの小さな店である。
昼食はここで取った。能登丼を頼むつもりだったが海鮮丼にした。こちらのほうが具の種類が多かったからだ。海辺の町の海鮮丼ということで大いに期待したのだが、割と普通だった。


2月19日(土) 13:30
偉大な人間の営み

車は、国道249号線を禄剛崎灯台を目指して走りだした。輪島市街から15分のところに白米千枚田がある。駐車場や展望台もあり、奥能登を代表する観光スポットになっている。

千枚田の起源は17世紀頃と言われ、現状に近い水田の形状が完成したのは明治初期だという。日本海に面して、小さな田が重なり海岸まで続く絶景は、日本の棚田百選、国指定文化財名勝に指定されている。また、2011年6月、この旅行の少し後に、日本で初めて世界農業遺産に認定された。

貧しい小農たちが乏しい労働力を永年にわたって投じ、営々と築き上げてきた壮大な棚田である。2月の雪のない枯れた千枚田は実に見栄えが悪かったが、素直に感動できた。


2月19日(土) 14:00
風と波が作り出した奥能登の奇形

白米千枚田から10分ぐらい走ると「窓岩ポケットパーク」に着く。町野川の河口から垂水の滝あたりまでの約2kmの海岸線を曽々木海岸といい、国の名勝および天然記念物に指定されている。そのシンボルといえるのが窓岩で、板状の岩の真ん中に直径2mほどの穴が開いている奇岩である。

でもそれだけなので、写真を2、3枚撮るとすぐ出発した。「窓岩」から5分、トンネルを抜けた先にあるのが、「波の花」の代表的な鑑賞スポットの一つ真浦海岸だ。「垂水(たるみ)の滝」があることでも知られている。


能登半島の冬の風物詩「波の花」。波の花とは海中のプランクトンが荒波によって、岩場に何度も打ち当たることで白い泡となり、花吹雪のように空高く舞い上がる現象のことである。楽しみのひとつだったが、この日の日本海はとても穏やかだった。

垂水の滝は山から海へ直接そそぐ滝で、落差およそ35m、別名「吹き上げの滝」とも呼ばれている。厳冬期の強い海風が吹く日は、滝が重力に逆らって左右に大揺れしながら空に向かって上り始め、時には、滝口からそのまま真っ逆さまに吹き上がるという。

垂水の滝
直接海に流れ落ちる珍しい滝


2月19日(土) 14:30
原発騒動の現場

高屋町

「垂水の滝」の先は珠洲市である。
車は国道249号から県道28号に入った。このあたりにくると、間垣や黒瓦に羽根板といった能登の伝統的な家屋が散見されるようになった。海岸線のドライブは高屋町までで、そこから先は断崖絶壁になる。

珠洲市は原発建設で揺れた街である。関電、中電の原発誘致をめぐり、推進派と反対派が市を二分する争いを演じた。推進派有利に事が進んでいたが、電力会社から突然建設中止を言い渡された。電力需要が頭打ちになっているというのが中止の理由だった。2003年の事である。関電の原発建設予定地だったのが高屋町である。もし原発が建設されていたならば、こんなのどかな風景も一変したに違いない。


県道28号の山道をしばらく走ると、道の駅狼煙に着いた。道の駅輪島と同じ、切妻屋根の美しい建物である。この向かい側に禄剛崎灯台の登り口がある。この登りは意外にきつかった。登りきった先は公園のようになっていて、一番奥に白亜の小さな灯台があった。明治16年に建設されたもので、歴史的・文化的価値の高さから「日本の灯台50選」にも選ばれている。

帰りに、道の駅で「いしる」を購入した。秋田の「しょっつる」や香川の「いかなご醤油」とともに、日本三大魚醤の一つとされている。イワシ、イカ、アジなどが主な原料だが、購入したものはイカだった。臭いがきつく、火を通しても生臭い香りは消えなかった。使い切ったものの、最後まで好きになれなかった。


2月19日(土) 15:30
能登の軍艦島

禄剛崎灯台から見附島に向かった。
見附島は能登・内浦の海に浮かぶ無人島である。白い地層は珪藻土で、頭にだけ緑が生い茂るおもしろい姿をしている。約150年前までは陸続きだったが、地層が柔らかいことから波に激しく侵蝕され、陸から切り離されて今の形となったという。浸食は今も続いているというから、やがてアイスクリームが溶けるように消滅する運命にある。島の上には見附神社(見附弁財天社)という社があったが、平成5年の能登沖地震で社殿が崩壊したらしい。島への上陸は不可能だから、陸続きの頃に建立されたのだろう。

見附島は、弘法大師が布教のために佐渡から能登へと渡る際に発見したといわれ、最初に「目についた島」というのが名前の由来だという。しかし、この頃は陸続きだったのだから、この話は明らかに嘘である。


2月19日(土) 16:00
心の風景

国道249号を見附島から30分ぐらい走ったところに三波簡易郵便局がある。郵便局のCMに登場して話題になった建物である。記念切手「ふるさと 心の風景第4集《春の風景》」にもに描かれている。

古い建物だが現役の郵便局である。目の前は富山湾で、車を停めるにも困るぐらい海に近い。厳しい風雪に耐えてきた時の重みを感じた。


心の風景第4集

この郵便局のすぐ後ろには、のと鉄道能登線(穴水 - 蛸島間)が走っていた。2005年に能登線は全線廃止になった。また、後ろの丘の上には三波小学校があった。こちらも、2006年に廃校になっている。切手に描かれた子供の姿が切なく感じられる。

三波簡易郵便局
後ろに見えるのが三波小学校、能登線の軌道跡も見える


2月19日(土) 17:30
夕食は蟹地獄

穴水のボラ待ちやぐら

予定していた観光は三波簡易郵便局までで、このあとは宿泊先の和倉温泉に直行した。

国道249号は鵜川から山道になり、穴水で再び海岸線に出てくる。何もない海の中に突如、「ボラ待ちやぐら」が現れる。網を投げたら、ボラが来るのを日がな一日やぐらの上で待ち続けるのだという。江戸時代から続くこの漁法も、1996年を最後に行う漁師がいなくなった。このやぐらは観光用で、やぐらの上の人は人形である。絶えたと思われたこの漁だが、2012年の秋から再開されたらしい。


能登島経由で七尾に入った。

この日の宿は渡月庵である。建物は大正四年に建築されたもので、大正浪漫の宿と銘打っている。外見はなかなかいい雰囲気だが、大型温泉ホテルに囲まれて、部屋からの眺望はすこぶる悪い。泊まった部屋は2階の角部屋で、広さは控えの間4.5畳、本間10畳、それに本間を囲む大きな縁側がある。欄間は旭日と鶴亀が彫刻がされており、床の間は、床柱・床框とも黒檀が使われている。この旅館の特別室で、皇族の方がご宿泊されたこともあったらしい。

部屋の様子
それほどの高級感はなかった


冬三昧会席

風呂は、天然温泉の大浴場と白湯の露天風呂、そのほかに貸し切り風呂が2つある。予約していた貸し切り風呂は、故障でもしていたのだろうか、冷たくて入れたものではなかった。当然、料金は返却してもらった。

渡月庵のこの時期の夕食は「冬三昧会席」である。冬の北陸の三大味覚(鰤、蟹、甘海老)が一度に楽しめる内容になっている。おそらく、この日もこれを食したに違いない。不味かったという記憶はない。
最後に想定外の蟹鍋が出てきた。固形燃料で炊く一人用の鍋ではなく、四人前の大鍋だった。幹事のM君は「ご当地鍋を求める旅」の感覚が残っていて、とにかく鍋をつけたかったのだろう、追加で頼んでいたのだ。しかし、ひととおり食べ終わった後だから、とても食べきれるものではなかった。それに、ひどく生臭かった。


2月20日(日) 10:00
加賀屋の接待

和倉温泉駅

翌日は電車で金沢に行った。
和倉温泉駅10時14発の特急サンダーバードに乗車し、金沢着は11時18分である。

レンタカーは前の日のうちに返却していたので、駅までは宿のワンボックスで送ってもらった。駅には加賀屋の大型バスが停車しており、着物姿の仲居さんがお客様の荷物を運んでいた。送迎も加賀屋ぐらいになると規模が違う。特急サンダーバードに乗り込み窓の外を見たら、仲居さんがこちらに向かって手を振っている。もちらん、我々に手を振っていたわけではない。「加賀屋はホームまで見送りに来るのか」と正直驚いた。


2月20日(日) 11:30
至高の一品

もりもり寿司

金沢に着くとすぐ昼食にした。
店は、駅前のショッピングモール「金沢フォーラス」の中にあるもりもり寿司金沢駅前店と決めていた。東京の回転寿司とは違い、大きな居酒屋のようでもあり、ファミレスのようでもあった。石川県内で大人気の回転寿司チェーンで、2時間待ちになることもあるらしい。昼食には少し早い時間帯だったので並ぶことなく店に入ることができた。

厨房の前のボックス席に案内されると、「生ものは廻っていないので直接言ってください」と言われた。回転寿司なのに、すべてその場で握ってもらい、ひととおり食べた後は、のど黒ばかりを頼むようになった。
考えられないぐらい美味かった。


2月20日(日) 12:30
江戸時代の歓楽街

能登観光が厳しい自然環境とそこに暮らす人々の生活史であったのに対し、金沢観光は江戸時代の華やかな武家文化、町人文化である。今回の旅行の目的から言えば蛇足で、そのせいか印象が薄い。
観光地を周回する金沢周遊バスが15分おきに運行されている。1日フリー乗車券を購入して、定番のひがし茶屋街、兼六園、金沢城、武家屋敷を見て回った。

ひがし茶屋街は加賀藩公認の郭で、以前は旧東廓と呼ばれていた。イメージが悪いので茶屋街という名に変更したらしい。歓楽街特有の猥雑さはなく、格式ある茶屋の町としての性格だけが今に引き継がれている。東西200m、南北100mの小さなエリアで、テレビや写真でよく紹介される二番丁も端から端まで歩いて10分とかからない。「えっ、もう終わり」、そんなかんじだった。


茶房 素心

ただ歩いていても能がないので、茶房 素心という店に入った。昔の茶屋の雰囲気が漂う和カフェである。2階の道路が見下ろせる席に座ったような気もするが、はっきりしない。こういう古民家カフェでは、普段経験できないゆったりとした時間の流れを楽しむのだという。残念ながら、そんな時間の使い方が苦手で、すぐ時計を見てしまう。ここも、あまり長居をしなかったように思う。


浅野川をはさんで北西にも茶屋街の1つである主計町がある。主計町と書いて、「かずえまち」と読む。ここも重要伝統的建造物群保存地区で、明治期から昭和戦前期にかけて栄え、当時の建造物が多く残っている。浅野川大橋から中の橋までの川沿いの道を散策したが、美しいというよりもゴミゴミした印象だ。夜の町なので、昼間は歩いて通り過ぎるだけだった。

中の橋
別名「一文橋」、昔は橋を渡るごとに一文支払った


2月20日(日) 13:30
加賀百万石

兼六園下・金沢城のバス停を降りて坂を上ると、左側に「兼六園」、右側に金沢城の「石川門」が見えてくる。このあたりはとても雰囲気がいい。兼六園には桂坂口から入園した。冬の兼六園といえば、雪害から樹木を守るための雪吊りが有名だが、この日は地面に残雪が残るだけで樹木にはまったく雪がなかった。

兼六園は廻遊式庭園で、歩きながら景観の変化を楽しむ趣向になっている。神仙思想に基づき、大海に見立てた大きな池とその中に不老不死の神仙人が住むと言われる島が配置されている。と聞かされても、造詣がないのでよく分からない。雪のない寒々とした庭園をダラダラと歩いただけで、景観についてはほとんど記憶がない。


城は大手門から入るのが普通だが、金沢城の場合は兼六園の近い石川門から入るのが一般的である。石川門と兼六園の間には橋がかかっており、この橋の下にはかつて百閒堀という堀があった。兼六園も城の東側を守る軍事拠点だったことが分かる。明治以降、堀は埋め立てられ、城の中には陸軍の司令部が置かれ、戦後は金沢大学のキャンパスに使われたりなどもした。加賀百万石も随分粗末に扱われたものである。平成8年に石川県が国から金沢城址を取得し、金沢城址公園として整備を始め、徐々に往時の姿を取り戻しつつある。復元されたばかりの五十間長屋を見学したが、真新しいせいか、城というよりも体育館のようだった。城らしくなるにはそれなりの歳月が必要らしい。


2月20日(日) 16:00
北陸の武家文化

武家屋敷

バスを香林坊(日銀前)で降り、そこから歩いて3分もすると土塀に囲まれた狭い路地が現れる。加賀藩士の中・下級武士が住居を構えた地域である。角館に比べると家も道も小じんまりしているのは位が低いせいかもしれない。カフェなどの店に改造している家もあるが、半分近くは一般住宅として人が暮らしているらしい。唯一見学できるのが「野村家」である。見学料は500円。小さな家で展示物も少なく、見学時間は10分もあれば十分だった。「これで500円か」、そんな不満が顔に出ていたのか、係員のおじさんから「写真は自由に撮っていいですから」と言われた。500円の中には写真代のプレミアムが含まれていますとでも言いたかったのだろうか。

(完)


北陸新幹線

帰りは小松空港から飛行機を利用した。今なら新幹線かもしれない。この旅行の時も金沢駅では北陸新幹線の工事が行われていた。開業したのは3年後の2015年3月14日で、金沢から東京まで約3時間である。

北陸新幹線の建設計画が決定したのは1972年(昭和47年)、工事に着手したのは1989年(平成元年)。計画決定から43年、工事着工から26年を経て、ようやく開業にこぎつけたことになる。
1987年(昭和62年)、廃止が決定していた旧国鉄能登線の全線を継承するかたちで「のと鉄道」が設立された。石川県としては、どうしても鉄道を残したかったのである。しかし、沿線の過疎化には逆らえず、2001年に七尾線(穴水 - 輪島間)、2005年に能登線(穴水 - 蛸島間)が廃止になった。
鉄道を造るのは気が遠くなるような長い時間がかかるのに、壊すのはあっという間である。


記:2018年2月