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2012年2月

銀山温泉


この旅行から「真冬の人気温泉地を巡る旅」に変わった。また、旅の終わりに酒盛りをするようになったのもこのときからだ。当初は銀山温泉に一泊するだけの単純なプランだったが、山寺と松島を加えて、芭蕉ゆかりの地を訪ねる趣向にした。ただ、一抹の不安もあった。積雪の状況によっては山寺に入山できない可能性があり、松島も東日本大震災の影響が気がかりだった。
あの未曽有の災害からまだ1年と経っていなかった。遅々として進まない復旧、失態続きの原発事故の後始末、記録的な円高による景気低迷、...悪いニュースばかりで、息苦しくて日本中が窒息しそうなかんじだった。こんなときのほうが息抜きの効果が出るらしく、他のどの旅行よりも楽しかった。


2月11日 13:30
想像を絶する豪雪

東京10時発の山形新幹線に乗車した。銀山温泉の最寄り駅である大石田の到着は13時16分である。昼食は車中になるので、乗車する前に駅弁を買っておいた。福島から先はミニ新幹線となり速度が落ちる。特に、米沢までの間には日本最大勾配の難所、板谷峠がある。ここだけは新幹線とは思えない速度で走行する。米沢から先は緩やかな田園地帯で、雪による影響もなく、予定通り大石田に到着した。

大石田駅
山形新幹線の駅では最も乗車人員が少ない


2月11日 14:00
趣味の良い小さな和風旅館

この日の宿は銀山温泉の高台にある「瀧見館」である。「瀧見館」というのは、銀山川沿いにある人気の手打ち蕎麦屋で、それが旅館も始めたということらしい。駅からは送迎バスが用意されていて、30分あまりで到着した。趣味の良い和風旅館である。

瀧見舘
尾花沢産そば粉の十割そばが名物


2月11日 15:00
大正浪漫の温泉街を散策

銀山川の両岸に大正から昭和初期にかけての木造多層建築の旅館が立ち並ぶ。小さな温泉街だが、雪に覆われる冬は息をのむほどに美しい。

1983年のNHK連続テレビ小説「おしん」の舞台となったことで全国的にその名が知られるようになった。最近では「藤屋」のアメリカ人女将が話題になった。度々マスコミにも登場し、「藤屋」は予約もなかなか取れないほどの人気旅館になった。しかし好事魔多しで、コンサルタントの口車に乗って、高級旅館に改装してしまった。怒った女将はアメリカに帰ってしまい、分不相応な改装は多額の借金となり、挙句のはてに、改装からわずか4年で倒産してしまった。温泉街一の人気旅館の凋落で、銀山温泉がテレビに取り上げられることも少なくなったように感じる。


それはともかく、まるで「千と千尋の神隠し」の世界に迷い込んだような不思議な空間である。その中を真っ赤なレインコートを着て歩き回るのは、もうそれだけで楽しかった。

湯めぐりの最初は「古勢起屋(こせきや)別館」だった。館内には内湯が2つあり、露天風呂はなかった。お湯は熱めで気持ちよかったが、浴室は暗くて狭かった。古い旅館だから設備の古さは致し方ない。

2軒目は「銀山荘」、こちらは温泉街の入り口にある現代的な宿である。ここでは露天の寝湯を利用した。寝そべって、遠くの雪山と雪が舞い散る空と枝に積もった雪を見ながら、のんびりした時間を過ごした。


帰りにまた赤い店の前に来た。銀山温泉の紹介番組では必ず登場する有名店で、いつも人であふれている。このときは、時間が遅いせいもあって閑散としていた。奥のテーブル席で、コーヒーと一緒にカレーパンを食べたはずだが、はっきり思い出せない。

はいからさん通り
「銀山温泉に行ったらカリーパン!」と言われるほど大人気


2月11日 18:30
記憶に残らない豪華な夕食

部屋は和室の10畳で、5人で泊まるには少し狭く、窓の外は雪以外に見るものはなかった。記念に茶碗を頂いたらしく、M君とT君は今でもこれを使っているという。

記念品の茶碗
瀧からの発想で、龍がデザインされている


2月12日 8:30
凍てつく早朝のバス停

翌日は、大石田駅9時31分発の新幹線で山形まで戻る予定だった。宿の送迎バスは大石田駅到着が9時50分なので、これでは間に合わない。路線バスで駅まで行くことにして、温泉街入口のバス停まで送ってもらった。この時間のバス停はとても寒く、おまけに、バスの到着も遅れていた。待合室のおかげで幾分寒さが凌げたが、それでもじっとしていられないほど寒かった。

温泉街入り口のバス停
積もった雪で押しつぶされそう


2月12日 10:00
山形駅は小春日和

山形駅で仙山線に乗り換える。大石田からは30分の距離なのに、市内の様子はまったく違っていた。青空が広がり、道路の雪も大石田とは比較にならないほど少なかった。

仙山線は1時間に1本なので、山寺には2時間しか滞在できない。昼食をのんびり食べている時間がないので、山形駅で駅弁を調達した。
最新の時刻表では、仙山線の山形駅発は10時52分、山寺駅着は11時10分となっている。写真の日時から推察すると、このときは今よりも15分早かったように思える。つまり、山形駅発は10時37分、山寺駅着は10時55分である。


2月12日 11:00
真冬の山寺に登る

山寺は通称で、正しくは宝珠山立石寺である。山岳仏教の霊地で、山門から奥の院までの石段は800余段、頂上の五大堂から美しい眺望が広がる。
ベストシーズンは秋だが、芭蕉が訪れたのは夏だった。
「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」

初案は、「山寺や石にしみつく蝉の聲」であり、その後、「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」となり、現在のかたちになったのはかなり後のことらしい。古来より、蝉は「アブラゼミ」なのか「ニイニイゼミ」なのか、蝉は一匹なのか複数なのか、そんなことが論争になっていた。この句を理解するには、「蝉の声」の大きさが重要だと考えたのかもしれない。

山寺駅
寺社造りの駅舎は東北の駅百選に選定


荷物は駅のロッカーに預けた。
山門で拝観料300円を支払い、中に入って長靴を借りた。黒いゴム長である。こんな日にも参拝者はかなりいて、石段の雪は踏み固められていた。中には、雪に埋もれて見えない石段もあり、こういうのが一番危険だった。大抵は凍っていて、何度となく滑って転倒した。

奥の院
山寺の一番奥に位置し、釈迦如来と多宝如が本尊


奥の院から尾根沿いをしばらく歩くと五大堂の下に出る。五大堂には階段がなく、綱を掴みながらよじ登る。ここも下が雪だと滑って登りづらい。ただ、五大堂からの眺めだけは冬の方がいい。現代的なものはすべてが雪に覆い隠されて、さながら水墨画のようだった。

さて、静かなのか、うるさいのか、よく分からない芭蕉の句のことである。俳人・長谷川櫂はこう解釈している。
「立石寺の山上に立った芭蕉は蝉の声に耳を澄ませているうちに、現実の世界の向こうに広がる宇宙的な静けさを感じとった」
つまり、五大堂に立ったならば、下界を見下ろすのではなく、空を見上げて宇宙を感じろということらしい。余人には理解しがたい哲学世界である。


2月12日 15:00
大震災の爪痕

山寺駅に戻ったのは12時30分、駅前で名物の玉こんにゃくを食べる時間があった。

ここから松島に向かう。13時発の仙台行き仙石線に乗車した。山形駅で買った駅弁「花笠こけし弁当」はこの車中で食べたのだろう。仙台で仙石線に乗り換えた。乗換に許された時間はわずかで、大慌てで仙石線に飛び乗った。松島海岸駅に着いたのは14時50分。松島は賑やかで雪もほとんどなかった。わずか2時間前には、山寺で雪と格闘していたことが嘘のようだった。

観光船乗り場
奥の細道の碑が立っている


松島に滞在できる時間は1時間ほどしかなかった。最低限の観光をするため、松島巡りの小型船をチャーターした。「よろい島」まで行って帰ってくるだけの30分コースである。船室に椅子は無く、床に直接腰を下ろした。このため、島を下から見上げるようなかんじになった。それ自体は臨場感があって良かったが、窓は締め切ったままなので視界が悪かった。それに、時間がなかったとはいえ、やはり30分では消化不良だった。

松島島巡り観光船
小型船の船内の様子


この後は、定番の五大堂を参拝し、露天の焼き牡蠣を食べ、瑞巌寺の杉並木を歩いて、松島海岸駅まで戻った。

東日本大震災の痕跡はまったく感じられなかった。無数の島が防波堤の役割を果たしたらしく、津波の被害はほとんど無かったという。いや、無かったと思われていたと言ったほうがいい。あの時、海水は瑞巌寺の杉並木の麓まで押し寄せており、時間が経つにつれ、杉並木は塩害で次々と枯れて行ったのである。Googleマップの航空写真で見ると、今ここは更地のような状態になっていた。この日は、在りし日の姿を確認できた最後の瞬間だったようである。


2月12日 18:00
牛タンは牛タン焼きにつきる

仙台に戻り、旅行の打ち上げに牛タン屋を探した。一番町にある牛タン焼き発祥の店「味太助」に行ったが満席で入れず、近くの「司本店」に入った。タン絡みのメニューを片っ端から頼んだが、やっぱり美味いのは牛タン焼きだった。

「旅の思い出を酒の肴に、料理の美味い地元の店で、地元の旨い酒を飲む」、我々の温泉旅行もすこし味が出てきた。
(完)


3.11、あの忌まわしき日のことは今でも鮮明に覚えている。

あの時、東品川にある20Fの職場にいた。立っていられないほど激しく揺れ、スライドキャビネットが大きな音を立てて左右に振られ、女子社員の悲鳴がフロア中に響きわたった。大きな揺れは2回あり、2回目の揺れががおさまった後、船酔いのような状態になった。津波はまだ来ていなかった。

エレベータは止まっていたので、階段で下まで降りるしかなかった。20Fに居たことが恨めしかった。交通機関は停止し、町中に人があふれていた。品川駅まで歩き、電車が動くのを待った。夜の8時頃、JRから復旧の見込みがないというアナウンスが流れた。家に帰ることができなくなった。この日、都内では300万人が帰宅難民になった。

翌朝8時頃、電車が復旧したとの連絡がはいり、駅に向かったが容易に改札の中に入れなかった。結局、電車に乗れたのは11時前だった。すし詰めの電車も戸塚までくると、かなり空いてきた。茅ヶ崎に着くと、品川の喧噪とは逆に、気持ち悪いぐらいに静かだった。幸い、家に被害はなかった。テレビは昨日起こったことの重大さを繰り返し伝え、津波のことはこの時初めて知った。やりきれない気持ちになった。
翌日、福島第一原子力発電所が爆発、日本はもうダメだと思った。

あれから7年、光陰矢の如し。


記:2018年3月