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2012年11月

奥会津


只見線は、会津若松駅から新潟県魚沼市の小出駅までを結ぶ全長135キロの山岳路線で、絶景の秘境路線として人気がある。「紅葉の美しい鉄道路線ベストテン」や「雪景色のきれいなローカル線ベストテン」に選ばれたこともある。この美しい鉄道も経営は厳しく、1日たった6便しかない赤字路線なのである。それでも廃線にならない理由は、国道が通行止めになる厳冬期に、福島県只見地区と新潟県魚沼地区を移動できる唯一の交通手段だからである。

只見線第一橋梁

2011年7月、あの東日本大震災が発生した年の夏、予期せぬ不幸が只見線を襲った。新潟・福島に発生した記録的な集中豪雨で只見川が氾濫し、只見川にかかる只見線の橋梁を破壊してしまったのである。会津川口駅 - 只見駅間が不通になり、その復旧には100億の費用がかかると言われた。復旧しても赤字路線では費用の回収は難しく、また、会津川口駅 - 只見駅間では国の支援も受けられない。明言こそしないものの、JR東日本に復旧の意思が無いのは明らかだった。

只見線の現状を確認したくて、晩秋の奥会津に車を走らせた。


11月2日(金) 9:40
燃えるような会津の紅葉

最初に目指したのは、「道の駅 会津西街道たじま」である。

平日なので、渋滞が始まる前に高速道路を抜けたくて、早朝5時に家を出た。東北自動車道を西那須野インターで降り、国道400号を那須塩原方面に向かった。那須の山々も赤く色づき、途中何度か車を停めて写真を撮った。国道400号は、野岩鉄道の上三依塩原温泉口駅付近で国道121号と合流し、会津西街道になる。あいにくの雨模様だったが、福島県に入ると、ワイパー越しにも会津の燃えるような紅葉が目に入ってきた。山に立ち込める朝霧がまるで煙のように見えた。

道の駅たじま
国道121号沿い、山王峠の項上付近にある道の駅


11月2日(金) 10:40
奥会津の玄関口

道の駅で一息入れてから、野岩鉄道の会津高原尾瀬口駅を目指した。

会津西街道というのは関東側からの呼称で、会津側からは下野街道、あるいは、日光街道と称されていた。Googleマップの表記も福島県に入ると日光街道に変わる。峠を下ると国道121号(日光街道)は国道352号と接続する。国道352号は別名「樹海ライン」と呼ばれる山岳道路で、奥会津・檜枝岐村から尾瀬へとつながっている。車は国道352号(樹海ライン)へ入り、何もない山道をしばらく走ると突然集落が現れ、その中に会津高原尾瀬口駅があった。


三種合体麺

会津高原尾瀬口駅は野岩鉄道の駅であると同時に、会津鉄道の駅でもある。つまり、この駅から先は会津鉄道の管轄になる。駅の利用者の多くは尾瀬に向かう観光客なので、この時期は閑散としていた。駅に隣接している「憩の家」の中に「恋路茶屋」という飲食店がある。この店には、大きめのどんぶりにラーメン、そば、うどんが入った「三種合体麺」という不思議なメニューがある。楽しみにしていたのに、この時間はまだ営業していなかった。


11月2日(金) 11:30
樹海ラインを走る

朝食にありつけぬまま、先を急ぐことになった。

奥会津の明確な定義はないが、只見川とその支流である伊南川、野尻川の流域沿いを奥会津と呼ぶのが一般的である。具体的には、只見町、金山町、三島町、柳津町、昭和村、檜枝岐村、南郷村、伊南村、舘岩村の4町5村である。2006年、過疎化により、南郷村、伊南村、舘岩村は田島町と合併し南会津町になった。

会津高原尾瀬口駅の先は延々と続く山岳路で、小雨が降りしきる中、すれ違う車も少なく、とても心細く感じた。


高杖の集落に入り、ようやく家並みが見えてきた。ここは舘岩地区の中心地で、ホテルやスキー場、ゴルフ場などのリゾート施設もある。高杖を過ぎると、また民家がまばらになり、役場や学校などの公共施設を通り過ぎた先に、重要伝統的建造物群保存地区である前沢曲屋集落が現われた。

曲屋とは、馬や牛と同じ屋根の下で家族同様の生活を営んで来たなごりで、遠野や木曽にも同様なものがあるが、集落として現存するのは珍しい。1907年(明治40年)に全戸焼失する大火に遭い、比較的新しい時期に再建されたことと、その再建を同一大工集団が担当したことで、L字形態の整った統一的景観が残ったという。


11月2日(金) 11:50
雪国の暮らし

駐車場の横に、曲屋の古民家を使ったそば処曲屋がある。食事ができるのはここだけで、遅すぎる朝食を取った。頼んだのは山菜そば。地元産のそば粉のみを使用した蕎麦も美味かったが、付け合わせの赤かぶ漬けが特に美味かった。これは舘岩地区の特産品で、以来、冬になると通販で取り寄せている。

テレビドラマ「リーガルハイ2」の第8話に登場する奥蟹頭村のロケ地にここが使用されていた。あたりは雪に覆われていたが積雪量は少なく、木々に赤みが残っているところをみると、11月下旬ぐらいのロケだったと思われる。ロケはこの旅行の少し後に行われたようで、放送を見た時、随分驚いたものである。


集落の入口付近に資料館がある。アルミサッシもガラス窓もなく、障子一枚で仕切る明治時代の暮らしをそのまま保存している。これで豪雪の厳冬を乗り越えてきたのだから、その辛さは尋常ではない。資料館以外で昔の姿をそのまま残しているのは水車小屋ぐらいだ。それ以外の民家は、現代の暮らしができるようにリフォームされている。

資料館でこの地域の暮らしに関する説明を受けたあと、集落の中を散策した。家並みを見るだけで、生活している家の中は見ることはできない。収穫を終えたばかりの畑に生活感を感じた。


この地域の伝統的な暮らしは、自然物採取や畑作農耕が中心で、冬期の麻糸、麻布製作、養蚕、屋根葺の出稼ぎ等が重要な副業であった。その後、稲作技術や養蚕技術の改良により畑が水田や桑畑に切り替えられた。道路整備が進むと林業が盛んになり、昭和初期には全国屈指の木炭生産地として栄えた。しかし、戦後のエネルギー革命や社会経済の変化により衰退し、今は展望の見えない過疎地域である。

ここは観光地化された大内宿とは違う。残されたわずかな手掛かりをもとに、雪国の厳しい生活史を学習する場所であり、観光にはある程度の年齢と知性が必要だ。


11月2日(金) 12:50
置き去りにされた農民歌舞伎の舞台

再び、国道352号(樹海ライン)を走り出した。伊南川の先で国道401号(沼田街道)と合流し、川沿いを檜枝岐方面に向かう。その途中に、民宿が立ち並ぶ大桃の集落がある。近くには、会津高原高畑スキー場があり、民宿はスキーヤーに利用されている。近年、スキー客の減少で、民宿経営も厳しいらしい。

大桃集落の裏手の山の中に大桃の舞台がある。観光案内では、概ね次のように説明されている。

江戸時代、南会津が幕府の天領として栄えた頃の名残で、農民歌舞伎が上演された。現在の舞台は明治時代の再建で、国の重要有形民俗文化財。習芝居は明治40年まで続けられ、以降は買芝居を上演し、毎年3回の宮籠もりなどにも使用されている。また、地域おこしの一貫で、毎年8月に「大桃夢舞台」が開催され、南会津地方の郷土芸能が上演されている。


説明でよく分からないのは、習芝居や買芝居という言葉である。

近世における農村の人々の娯楽の主流は、地方に巡業して来る旅芝居(歌舞伎)と人形芝居(「操り」「人形操り」「人形浄瑠璃」)で、これを買芝居といった。 つまり、プロによる興業である。見たり聞いたりしているだけでは我慢出来なくなって、村人がプロの役者や人形遣いに教わって、自ら演じるようになったのが習芝居である。

福島県の重要有形民俗文化財は奥会津に集中している。無形文化財とセットになって、この地域の生活史を今に伝える。檜枝岐村の農民歌舞伎は今でも継承されているが、大桃のほうは明治40年で途絶えてしまった。大桃地区の世帯数は50戸、高齢化65%。大桃の舞台は、過疎地における無形文化財継承の困難さを伝えている。


11月2日(金) 13:30
無人の景勝地

もう少し先に行ってみた。この先には、伊南の屏風岩がある。伊南川の急流が長い年月をかけて形づくった奇岩で、紅葉の名所としても知られている。

すれ違う車もなく、降りやまない雨であたりは薄暗く、「屏風岩」の広い駐車場にも誰もいなかった。川に沿って遊歩道が整備されており、傘をさしながら散策した。岩肌の紅葉は少し色あせていたが、そそり立つ白い岩壁は迫力満点だ。音を立てながら流れる伊南川の急流は、雨のせいか水量が多く、怖いくらいだった。


遊歩道は、川沿いを離れると草むらの中に紛れ込んだようになり、とても心細くなった。ようやく視界が開けて駐車場に戻ったとき、遠くにたたずむ車が我が家のように思えた。

この先が檜枝岐村である。人口約600人の日本一小さい村で、尾瀬の福島県側の入口にあたる。270年以上の歴史を持つ檜枝岐歌舞伎が有名である。檜枝岐の舞台を見る機会はそうそうあるものではなく、行くつもりでいたのだが、この寂寥感にめげてしまった。人恋しくて、山道を先に進むよりも、少しでも早く宿に着きたかった。


11月2日(金) 14:00
生気みなぎる大銀杏

この日の宿は南郷地区の「さかい温泉さゆり荘」だった。宿に行く前に、一箇所、立ち寄りたい場所があった。伊南地区にある古町の大銀杏である。

旧伊南村の村役場に車を停めた。車を降りて、あたりを見回したところ、大きな木が目に入った。黄金色の神々しい姿を期待していたが、残念ながら少し早かった。言われるほどの大木には見えなかったが、傍に行って見ると、信じられないような巨木だった。古町の大銀杏は、樹齢800年、樹高35m、幹周り11m、根周りは16m という巨木で、福島県の天然記念物に指定されている。倒壊した鶴岡八幡宮の大銀杏が、樹高20m、幹回り6.7m であったことを考えると、その巨木ぶりが分かる。


大銀杏の起源は12世紀末。源頼朝からこの地を下賜された会津四家の1人、初代河原田盛光が居館を築いた際に、庭樹として植えたものだと言われている。かつては乳の神(おっぱいの出がよくなる)として信仰され、地元だけでなく、他県からも多くの参拝者が訪れたらしい。

この大銀杏は伊南小学校の中にあり、全景を撮影できる場所は小学校の校庭しかない。さすがに、勝手に入るわけにはいかず、校門のそばで見るだけだった。


11月2日(金) 15:00
奥会津のホテル

「さかい温泉さゆり荘」に着いたのは15時。檜枝岐村に行かなかったので、予定よりも随分早く着いてしまった。もっとも、朝の5時に家を出たから、かなり疲れていて、すぐにでも風呂に入りたかった。

「さかい温泉さゆり荘」は一昔前の温泉ホテルで、設備は古いが、キレイに使われている印象だった。料金も安く、温泉も食事も満足のいくものだった。ホテルの前にある赤い屋根の洒落た洋館は、さいたま市の保養施設「ホテル南郷」である。旧南郷村は、旧浦和市と姉妹都市の提携をしていた。奥会津には他にも、旧舘岩村と旧大宮市、昭和村と草加市、金山町と鴻巣市、羽生市など、埼玉県の都市と姉妹都市提携をしている例がある。

さゆり荘の夕食
岩魚、山菜、キノコなど山の幸中心の食事


部屋は和室の6畳で、広縁が付いていた。部屋の窓から赤く染まる山を見ていて、司馬遼太郎の随筆の中に会津の紅葉について書かれた一節があることを思い出した。後で調べたら、次のように書かれていた。

紅葉は、京の高雄や嵐山である、というが、それは渓流の対岸から賞でるたぐいの紅葉であり、会津の山々のそれとはちがう。会津の山々の紅葉は人を壮大な色彩のなかにうずめつくしてしまう紅葉である。

確かにそんな印象だ。


11月3日(土) 8:30
只見という町

この日も雨、しかも前日よりも雨足が強い。8時にチェックアウトし、只見駅を目指した。

戦後、只見川上流には田子倉ダム、奥只見ダムなどの大きなダムが作られ、下流にも多数のダムが作られた。総工費は約348億円、建設に携わった人員は延べ約300万人、日本のダム建設史に残る大事業だった。ダム建設は辺境の農村を一変させた。雇用が増え、人口が増え、社会インフラが整備され、他の地域にはない豊かさをもたらした。その反面、産業構造を公共事業依存型に変えてしまった。ダム建設が終わると同時に、人口減少に歯止めがかからなくなった。いま、只見町は「自然首都・只見」と称し、手つかずの原生林を観光資源にし、農林業の再興に注力している。


不通になっている会津川口ー只見間はバスによる振替が行われている。100億投じて復旧するよりも、バス1台用意するほうが現実的である。もともと、この路線はダム建設の資材運搬用につけられた路線で、ダム建設の終了で本来の役割を終えている。復旧は限りなく困難だった。

只見駅の中に「只見町インフォメーションセンター(観光案内)」がある。地元の特産品も販売していたので、新米を購入した。店員に只見線の話を聞くと状況はやはり厳しいようで、それでも「絶対に廃線にはさせない」と憤っていた。


11月3日(土) 8:30
六十里越

只見駅から国道252号線を県境方面へ向かうと、前方に巨大な田子倉ダムとJ-POWERの建物が見えてくる。J-POWERを右折し、つづら折りの山道を一気にダムサイトまで駆け上がると、田子倉湖の無料駐車場がある。

この場所は六十里越という。標高863mの峠で、実際の距離は六里だが、六十里に感じるほどの難所だというのが名前の由来である。1599年(慶長4年)、上杉家が越後から会津に国替えになった際、この峠を越えて会津に入った。


戦後、田子倉ダムの建設に伴い、国道や鉄道が整備された。国道252号の六十里越は福島県側が難所で、田子倉湖の湖岸に沿うように進み、県境の六十里越トンネルまで急勾配を一気に駆け上がって行く。一方、只見線の六十里越は、長大な六十里越トンネルおよび田子倉トンネルがほぼ直線的に貫通している。国道と鉄道の唯一の接点が、秘境駅で有名な田子倉駅である。

冬季は国道252号線の六十里越は通行止めになり、只見線が福島県只見地区・新潟県魚沼地区間の唯一の交通手段になる。ここも、集中豪雨による被害を受けたが、いち早く復旧された。


11月3日(土) 9:40
事故の現場

只見駅に戻った。ここから、只見川沿いに国道252号線(沼田街道)を会津川口駅に向かって走り始めた。時折見える線路には、わずかの間に枯草が生えていた。

集中豪雨で流出した橋梁は3箇所、その最初の現場である第7只見川橋梁の近くに到着した。車を停めたのは二本木橋を渡ったところだった。被害を受けたのは一般の橋梁も同様で、地域の暮らしへの影響が大きいため、残った部分を利用して仮橋が建設された。上流では新しい橋の建設も始まっていた。国の事業は対応が早い。第7只見川橋梁はもう少し上流にあるが、この場所からは状況を確認することができなかった。

第7只見川橋梁
Wikipediaに掲載されている事故後の写真


横田の集落から国道252号線は只見線と並走する。線路を横目に見ながら、ここをもう列車が走らないのかと思うと耐え難い気分になった。本名ダムの手前でスノーシェッドに入った。只見線は山の中を通り、本名ダムの先で只見川を渡る。そこが、第6只見川橋梁である。

スノーシェッドを抜けると、ダムの上から第6只見川橋梁の無残な姿がはっきり見えた。川の中には滑落した橋桁が放置されたままになっており、惨憺たる有様だった。

第6只見川橋梁
川の中に放置されたままの橋桁


国道252号線の西谷橋を越えた先で、第5只見川橋梁が見えた。橋の原形はとどめているが、右側がえぐり取られていた。車を停める場所がなく、少し先の民家の脇に停めた。ここからは樹木が邪魔して、崩落した様子を見ることはできなかった。

只見線橋梁流出の原因については、只見川に建設された10基のダムの貯水容量の低下が指摘されており、ダムからあふれた水が只見川で洪水となり、被害を拡大させたと言われている。ダムの安全管理を怠った電力会社の責任も問われている。


11月3日(土) 10:10
終着駅

会津川口駅に到着した。只見線の数少ない有人駅のひとつで、2階建ての駅舎の中に農協と郵便局が同居している。この頃には雨も上がり、日も差してきた。

駅員に只見線のことを聞いてみると、「目下、調査中です」と言葉を濁した。ホームの中に入りたいので、入場券を買おうとしたら、写真を撮るだけなら自由に入っていいと言われた。せっかくだから、ここまで来た思い出に入場券を購入した。硬券を期待していたのだが、出てきたのはマルス券だった。

只見線の入場券
会津川口駅の入場券、140円


ホームは駅舎の中ではなく、只見川のほとりにある。会津若松行きのキハ40形が停車していた。出発は2時間以上も後で、誰も乗っていなかった。本来なら、ここで停車している列車ではなく、只見に向かっていた列車である。ホームから只見方面を見ると、線路は川のほとりに付けられており、第5只見川橋梁で只見川を渡る。もう隣の駅(本名駅)へも行けないのである。

只見線の車両
1977年から1982年にかけて国鉄が製造したディーゼル車


11月3日(土) 11:00
過疎の村

会津若松には行かず、国道400号を使って南会津の中心地・田島へ行くことにした。国道400号は山越えの難所で、山の頂上にあるのが昭和村である。

かつて昭和村というのは日本中に存在したが、統廃合がすすみ、今は群馬県と福島県の二つだけになった。群馬県の昭和村は人口7500人、野菜の一大産地であるが、福島県の昭和村は人口1450人、高齢化率55%の限界集落である。

この昭和村の特産品が「からむし」で、「からむし織りの里」と名乗っている。「からむし」は、越後上布や小千谷縮など伝統織物の原糸で、山里の貴重な換金商品だったが、戦後は安い化学繊維の普及や着物需要の縮小によって、かつての豊かさを失った。今は、「からむし」に代わって、かすみ草が村の経済を支えている。


「からむし織の里」という村で唯一の観光施設がある。からむし織り体験が出来る「織姫交流館」、からむし織りの伝統を伝える「からむし工芸博物館」、郷土料理の「芋麻庵」からなる。意外だったのは、観光客の多さである。女性客が、売店に展示されている高価な「からむし織り製品」に群がっていた。紅葉が見ごろのこの時期だけのことかもしれないが、駐車場には遠方からのクルマも少なくなかった。

限界集落の寂れた感じはなく、山里の整然とした営みが感じられた。限界集落になると、近隣の自治体と合併する救済策が取られる。ここも会津坂下町との合併話があったらしいが、今も独立した自治体として存続している。


11月3日(土) 12:30
King of 廃校

昭和村には、もうひとつ有名なものがある。30年前に廃校になった喰丸小学校である。廃校マニアのあいだでは、「King of 廃校」と呼ばれていた。昭和12年に建てられた木造校舎で、老朽化により取り壊される予定だったが、映画で使われることになり、延期されていた。その映画の撮影も終わり、取り壊される前に是非見ておきたいと思い、立ち寄った。

この日、小学校の校庭では、「第1回イチョウまつり」というイベントが開催されていた。静かに最後の時を過ごす校舎の姿を見届けるはずが、想定外のお祭り騒ぎだ。催し物は既に終わっていたが、テントの下で食事をする人がまだ沢山残っていた。


雨でぬかるんだ駐車場にクルマをとめて、200円のコーヒーを片手に、小学校の外観を見て回った。裏に回ったとき、荒廃がすすむ校舎の現実を目の当たりにした。修復する意思はなさそうで、冬を迎える前に解体されるのだろう。・・・とこの時は思っていた。

実は、喰丸小学校は今も存在する。この後、村民のあいだで存続へ向けた動きが大きくなり、修復して残すことになったのである。問題はその修復費用だ。昭和村は校舎の修復費用2400万円をなんとクラウドファンディングで調達することにしたのである。自治体がこういう手法で資金集めをする例はとても珍しい。結果は、半分程度しか集められなかったが、素晴らしい試みだった。

昭和村のクラウドファンディング
築80年木造廃校舎「旧喰丸小学校」を人が集う拠点に


11月3日(土) 14:30
短い会津の秋

昭和村を離れ、田島に向かった。この間にある舟鼻峠が難所で、冬期は雪のため通行止めになっていた。平成5年から全体延長3.9Kmの田島バイパス工事が始まり、平成21年10月に完成。このバイパスの開通で、ようやく冬でも田島に出られるようになった。この旅行の3年前のことである。

田島は、奥会津の町や村とは違い、都会である。大きな病院もスーパーもコンビニもある。会津鉄道の会津田島駅に車を停めた。南会津町は南郷トマトが名産で、駅の売店にはトマトジュースを始め、トマトを使った商品が多数置かれていた。2階の飲食店では、「トマトラーメン」が人気らしかった。少し食指が動いたが、やめておいた。


旅の最後に、下郷町の紅葉の名所「観音沼森林公園」に行った。下郷町には、大内宿や塔のへつりなどの観光名所があるが、観音沼森林公園も人気がある。標高1640mの観音山の麓にある観音沼周辺を整備した森林公園で、駐車スペースを探すのも苦労するほど多くの人が来ていた。

見頃は10月らしく、息をのむほどの美しさはなかったが、十分綺麗だった。背後の山はすでに雪を抱いており、短い秋の終わりを告げていた。

(完)


「只見線応援団」のことを知ったのは、2016年の暮れのことである。事実上廃線状態になっていた只見線を民間からの寄付で復旧させようと呼びかけていた。1万円の寄付をしたものの、2年半の活動で集まった寄付金はわずか6千万円で、復旧などとてもおぼつかない状況だった。

あれから約2年、突然、只見線応援団から手紙が届いた。それによると、県などの支援で、2021年度中の全線開通に向けた復旧工事が6月15日から本格的に始まったという。手紙の趣旨は、復旧の目途は立ったので、今後は利用拡大に向けて協力してほしいということだった。何故、復旧工事再開という重要なことを今頃知らせてきてくるのか、少し腹がたったが、ともあれ、大きな前進である。

只見線には一度だけ乗ったことがある。40年前の冬、小出から柳津までの2時間半の旅だった。この頃は鉄道の写真を撮る習慣がなく、只見線の写真は1枚も残っていない。事故の話を聞いたとき、写真を撮っていなかったことが悔やまれてならなかった。全線開通は3年後だ。その時はカメラを携えて、もう一度、乗ってみよう。


記:2018年11月