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2013年2月

白川郷


船でしか行けない温泉がある。小牧ダムの湖畔にへばりつくように建っている大牧温泉である。もともとは庄川峡の素朴な湯治場だった。昭和5年、小牧ダムの完成とともに村落は湖底に沈んだが、温泉宿一軒だけが湖面の上に移転して営業を続けた。しかし、ダムを渡る交通手段が船以外整備されなかったため、船でしか行けない温泉になった。秘湯も秘湯すぎると泊まるだけの旅になってしまうが、ここは富山の中心街まで車で1時間の距離にある。さらに1時間ほど山奥に行けば、世界的に有名な秘境の村がある。秘湯にしては意外に立地がいいのである。


2月9日 8:00
北国らしい空港の景色

1週間前、レンタカー会社に確認したら道路に雪は無いという回答だった。しかし、直前に大雪が降ったらしく、富山空港の朝は寒々としていた。

空港の看板が「富山きときと空港」に変わっていた。2013年が空港開港50周年にあたるということで、愛称を制定したという。「きときと」とは富山弁で新鮮という意味で、富山には新鮮な魚介類が多いと言いたいらしい。しかし、方言ではうまく伝わらない。

今回のレンタカー
ニッポンレンタカー/プレマシー


2月9日 9:30
世界に誇る幻想的な風景

空港から白川郷までは高速道路が整備されている。一般道を走ったのは、白川郷インターから駐車場(村営せせらぎ駐車場)までのわずかな距離だけだった。

2018年3月現在、17件の文化遺産と4件の自然遺産、合計21件が世界遺産に登録されている。白川郷・五箇山の合掌造り集落が世界遺産に登録されたのは1995年12月で、以来、数ある世界遺産の中でも高い人気を得ている。白川郷の観光客は年間100万人を超えている。

駐車場と集落の間に流れる荘川には、「であい橋」という名の吊り橋がかかっている。景観はとても美しかったが、雪で足元は滑りやすく、おまけに人が歩くと揺れて結構怖かった。

であい橋
全長107m、コンクリート製の吊り橋


集落の中は、明善寺→長瀬家→和田家順に回り、そのあと、シャトルバスに乗って展望台へ行った。

明善寺は本堂、庫裡、鐘楼門のすべてが茅葺という珍しい寺院だ。なかでも、1階に板庇をつけた不思議な形の鐘楼門が印象的だった。庫裡は白川郷の五階建て合掌造りとしては最大のもので、中は郷土館になっている。見学できたはずなのに、何故か通り過ぎてしまった。

集落を歩いてみると、想像していたイメージとは随分違った。家の多くは普通の民家で、合掌造りの家は意外に少なかった。合掌造りの家は、養蚕に適した特性を持ち合わせていたが、養蚕が衰退すると、暮らしにくいという理由で家の多くが取り壊された。昭和51年に、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されてから、保存活動が推進されるようになり、残った家の数は60棟。

長瀬家
250年つづく旧家で、5層建ての合掌造り家屋は白川郷で最大


白川郷は農地が少なく、かつ農業ができる期間も限られていたため、養蚕を中心にした家内工業が発達した。また、土地がないから次男三男が分家することも難しく、結果的に長男一家を中心とした大家族となった。養蚕の衰退でこうした暮らしは崩壊し、現在は民宿や飲食店が生業になっている。観光地にならなかったら、残った家の数はもっと少なかったかもしれない。

村一の豪農・和田家の家はひと際大きく、築300年以上で、国の重要文化財に指定されている。生糸の他に火薬の原料である塩硝の取引で財をなし、江戸時代には名主・庄屋を務め、名字帯刀を許されていたという。1階は生活空間、2階から上は仕事のスペースで、養蚕業に関するものが数多く展示されていた。

和田家
現在も住居として活用しつつ、1階と2階部分を公開


展望台にはシャトルバスで行く。バス停がある荻町駐車場に着いたのは11時少し前で、この時間になると観光客の数も増え、バス停には長い行列が出来ていた。1台目のバスには乗れず、20分待って、次のバスに乗車した。展望台には10分足らずで到着した。定番のビューポイントである。

合掌造り家はいずれも妻を南北に向けている。それは、屋根にまんべんなく日が当たるようにして冬場に雪を溶けやすくすること、茅葺き屋根を乾燥しやすくすること、集落は南北の方向から強い風が吹くので風を受ける面積を少なくすること、 という3つの効果があると言われている。確かに、おかしいくらい、みんな同じ方向を向いている。


2月9日 12:30
名物に美味い物なし

展望台からの帰路は、夏ならば下に降りる遊歩道が使えるらしいが、冬は閉鎖されているので、シャトルバスで同じ道を戻ることになった。和田家の近くで途中下車できたような気もするが、よく覚えていない。

昼食は、和田家の近くの「白水園」でとった。合掌造りの有名店で、「おやじ和膳(2000円)」という熊鍋のセットが看板料理である。満席で少し待たされた。席に案内されると、当然のことのように「おやじ和膳」を注文した。熊鍋は、熊肉と野菜の煮込みうどんのようなもので、はっきり言って美味くなかった。それに、うどんと蕎麦のセットメニューというのも変なかんじだ。残念ながら期待外れ。


2月9日 14:30
合掌造りの小さな里山

昼食を終えてから、五箇山に向かった。

五箇山とは、平村、上平村、利賀村の3村の地域の総称で、庄川沿いに5つの集落がある。上平村菅沼平村相倉の2集落が世界文化遺産に登録された。一大観光地化した白川郷と違い、築100年~200年の合掌造りの家が29軒、ひっそり佇んでいる。白川郷から菅沼集落までは車で30分、そこから相倉集落までは車で20分の距離である。

菅沼集落
五箇山の暮らしを体験できる五箇山民俗館や塩硝の館がある


菅沼集落は周囲を山に囲まれ、9棟の合掌造りの家が残っている。一方、相倉集落は山の上にあり、20棟の合掌造りの家がある。積雪は相倉集落が一番多く、背の高さぐらいあった。その雪をかき分けながら、集落を見下ろせる展望エリアまで登った。すべてが雪に埋もれ、息を押し殺して暮らしているような印象だった。そういえば、五箇山には平家の落人伝説があった。イメージ的にはピッタリである。

相倉集落
展望台から集落の全容が望める。背後の山は白山連峰


2月9日 16:30
船でしか行けない秘境の一軒宿

大牧温泉に渡る船は庄川遊覧船で、小牧ダムのほとりが乗船場になっている。車は乗船場の駐車場に一晩置き去りにする。この時期の午後の便は、14:30と16:00の2便で、宿泊客はどちらかの便を利用することになる。おそらく、ほとんどの宿泊客は16:00の便を利用するものと思われ、この日も定員120席がほぼ満席だった。乗船場から30分で、大牧温泉の建物が見えてきた。

船の到着と出発の際には、船着き場まで従業員が出てくる。また、記念撮影の手伝いもしてくれる。能登の加賀屋を思わせる丁寧なサービスである。ロビーには炭火の囲炉裏があり、チェックインする客で大混雑していた。来館時間がみな同じだから致し方ない。

囲炉裏のあるロビー
団体客優先、囲炉裏は個人客の待合スペース


泊まったのは、湖に面した部屋である。12畳と6畳の和室の部屋で、部屋風呂まで付いている。温泉は広くはないが、必要な要件は揃っており、設備自体は悪くなかった。

しかし、夕食がダメだ。囲炉裏が何台も設置された大部屋での食事になるが、囲炉裏を使うわけではない。囲炉裏端に冷たい食事が置かれているだけで、見るからに食欲がわかない。後から「温かい食事をどうぞ」と言って、芋しんじょうや天麩羅が出てきたが、少しも温かくない。天麩羅に至っては、時間が経ち過ぎてビチャビチャだ。そもそも、富山まできているのに、ます寿しも、ぶりの刺身も、ほたるいかも、白海老も出てこないのである。19,000円の宿とは思えない、ひどい内容だった。


2月10日 9:40
カモシカが出現

翌朝は、船の出航時間に合わせるため、9時40分の出発になった。船着き場には2隻の船が停泊しており、どうやら、1隻では乗り切れないほどの宿泊客がいたようだ。対岸にカモシカが現われ、喚声があがった。旅館のパンフレットには、「白銀の断崖にカモシカが姿を現す」と書いてあったが、こんなに都合よく現れるとは思わなかった。

船着き場に向かう道
対岸に現れたカモシカを見入る人たち


2月10日 11:30
氷見グルメにありつけず

ひみ番屋街

ひみ番屋街」は氷見漁港に隣接する場所にあり、想像していたよりも大きな施設だった。昼食には少し早い時間に到着したにもかかわらず、駐車場はほぼ満車だった。真っ先に、回転寿司に向かったが、店の外まで客が溢れていた。回転寿司ほどではなかったが、どこの店も同じように混んでいた。想定外の状況で、この後の予定を考えると、長い行列に並ぶ余裕はない。結局、パックの寿司を買ってきて、フードコートのテーブルで食べるという情けない結果になった。氷見の海産物、とりわけ白エビや寒ブリは、今回の旅行の楽しみのひとつだったのに、食事に関してはことごとくついていなかった。


2月10日 13:00
高岡を代表する伝統工芸品

「ひみ番屋街」を出ると、少し雪がちらついてきた。途中、景勝地として有名な雨晴海岸に立ち寄ったが、立山連峰はかすんで見えなかった。

雨晴海岸
晴れていれば、息をのむ美しさとか


2月10日 13:30
目を奪われるほどに美しい回廊

瑞龍寺にはそれほど興味があったわけではないが、高岡大仏の近くなので寄ってみた。正直、驚いた。これほどの名刹は滅多はお目にかかれない。風格といい、大きさといい、とにかく圧倒されてしまった。

高岡市観光協会のHPには、次のように紹介されている。
瑞龍寺は、三代藩主前田利常公が高岡の開祖前田利長公の菩提寺として約20年の歳月を費やして造営したものです。周囲に回廊をめぐらして諸堂を結ぶ禅宗様式の典型的な伽藍配置は壮大で、特に山門、仏殿、法堂は近世寺院建築の傑作として富山県内で唯一の国宝の指定を受けています。


寺の僧侶が、団体客のお相手をしていたので、後ろについて回った。寺の由来や見所など、とても分かりやすい説明だ。法堂のところでは、前田家の処世術について語り出した。

前田家は、敢えて源氏でも平家でもない菅原道真の後裔を自称することを選びました。菅原道真が太宰府に流されて不遇のうちに死んだことはよく知られています。今でこそ、学問の神様になっていますが、天満宮ができるまでは、怨霊として恐れられていました。あそこの御仏壇をよく見れば、神社の社が隠されており、それは怨霊を封じ込めるために・・・

変な話になってきたので、そこで列を離れた。


2月10日 15:00
外の雰囲気はよかったが…

旅の終わりは富山城址公園
富山城は佐々成政や富山藩主前田家の居城であったが、1871年(明治4年)の廃藩置県により廃城となった。建物は解体され、石垣と入口の「千歳御門」だけが唯一の現存建築遺構である。園内には城の形をした富山市郷土博物館がある。富山城として紹介されるが、史実に基づかない「模擬天守」だそうである。特に見所もなく、天気も悪いので、園内を一周しただけだった。

富山空港に着いたのは16時少し前。帰りの飛行機は17時発だから、空港内で軽く打上げをした程度だった。空港レンタカーだと、どうしてもこうなってしまう。今なら、帰りは北陸新幹線にして、地元の居酒屋を探したはずである。

(完)


白川郷と五箇山にだけ合掌づくりが残った理由は、ここが「山深い豪雪地帯で、交通整備が遅れ、周辺地帯と隔絶されたエリアだった」からだと説明されている。何が言いたいのかよく分からないが、福島県の大内宿の話が参考になる。

大内宿は会津西街道(下野街道)の宿場町で、会津藩の参勤交代や迴米の集散地として繁栄した。しかし、幕府の命令で参勤交代のルートが変更されてしまい、さらに、地震で会津西街道が一時不通となると、途端に寂れてしまった。明治になって会津鉄道が開通すると、完全に物流ルートから外れ、山の中に取り残された。住民は自給自足の貧しい生活を強いられることになったが、この貧しさが幸いした。貧しくて、家の改築もままならなかったことで、奇跡的に江戸時代の宿場町の町並みが残ったのである。1981年(昭和56年)4月18日、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、今や年間100万人近い観光客が訪れる県内屈指の観光地になった。

同じような話かもしれない。


記:2018年3月