
2016年2月
外国人に人気のスキー場といえばニセコだ。あまりに人気で、すでに飽和状態だという。そこで、妙高高原、白馬高原、志賀高原、野沢温泉の長野勢が、ニセコの外国人客を自分たちのスキー場に呼び込むプロジェクトを立ち上げた。それは大きな成果を上げており、妙高高原の赤倉温泉などは、オーストラリア人に乗っ取られたと錯覚するぐらいの状況になっているという。
2017年9月、環境庁はスキー場へ外国人客を誘致するための事業モデルを公募し、北海道と青森県の計画を採択した。この冬の実績を見て成果があるようならば、この事業モデルを全国展開するらしい。ちなみに、青森県の計画は、外国人受け入れ体制を整備し、雪上トレッキングや雪遊びなどを開発し、温泉やねぶた見学など青森県独自の体験ができるような仕組みを作るというものだった。凡庸な事業モデルのような気もするが、秘湯であるはずの酸ヶ湯温泉にも外国人スキーヤーが大挙して押しかけているぐらいだから、案外核心をついているのかもしれない。
2月6日(土)9:50
基地の街に降り立つ
酸ヶ湯温泉へは、青森駅14時発の無料送迎バスが用意されている。東京10時20分発の新幹線に乗れば、青森駅には13時50分に着ける。簡単でいいが、移動だけで一日が終わってしまうのは芸がない。そこで、もう少し早い時間の新幹線で八戸まで行き、昼食に名物のせんべい汁を食べることを考えた。
ところが、へそ曲がりのM君が飛行機を使いたいと言い出した。「\飛行機で三沢空港に行き、そこからバスで三沢駅に移動し、青い森鉄道に乗り換えて八戸に行く」というのである。新幹線なら1本で行けるものを面倒くさいことこの上ない。しかし、頑として譲らず、結局、飛行機を使うことになった。
三沢空港は、在日米軍、航空自衛隊、民間航空の三者が共同使用する共用空港である。空港の周りは米軍基地で、空港も基地の一部になっている。一般旅行者の行動範囲は厳しく制限され、Googleのストリートビューでさえも空港には近寄れない。この規制は十分機能しているようで、米軍基地も軍用機もまったく目に触れることがなかった。
2月6日(土)10:20
青森で最初の駅ビル
三沢駅のバス停は、十和田観光電鉄三沢駅の前にある。鉄道は2012年に廃線になり、今はバスの待合室として利用されているだけだが、電車の文字はそのままになっている。
歴史を感じさせる駅舎は昭和39年7月に「三沢観光センター」として開業した。青森県初の民衆駅で、かつては多くの観光客で賑わったそうだ。昭和39年といえば、東京オリンピックが開催された年で、国内の社会インフラが急速に整備された時期でもあった。ここも、そんな高揚感の中で開業したのかもしれない。
この廃墟のような建物の中で、いまでも蕎麦屋が一件だけ営業している。昔懐かしいかんじの駅そばだが、立ち食いではなく、すべて椅子席である。注文したのは、天ぷら、山菜、山芋、生卵が入ったスペシャルそば、420円。
2月6日(土)11:00
せんべい汁を食らう
新幹線の駅は中心地から離れている場合が多い。八戸駅もそのひとつだ。以前は「尻内駅」と名乗っていたが、1971年に「八戸駅」に改称、もともとあった八戸線の「八戸駅」は「本八戸駅」になった。新幹線の開業に合わせて改称されたわけではなく、市の中心駅は本線上にあったほうがいいという理由から変更されたらしい。名前は変わっても、市街地から外れていることに変わりはない。
八戸の観光名所は意外に少ない。八戸駅を起点にした定番は、ウミネコで有名な「蕪島神社」、食品市場の「八食センター」、屋台の「みろく横丁」ということになる。「蕪島神社」は火事で全焼してしまったし、「みろく横丁」は夜しか営業していない。「八食センター」へは専用バスが用意されているが、つなぎが悪い。青い森鉄道で八戸駅に着いたのが10時56分、バスはその1分前に発車してしまった。観光客は新幹線でしか来ないと思っているらしい。
結局、八戸駅からはどこにも行けず、せんべい汁を食べられる店も、お土産を買う店も自ずと決まってしまった。せんべい汁は、八戸駅に隣接するホテルメッツ八戸の中にある「いかめしや 烹鱗」。お土産は、八戸駅と連絡通路でつながる「ユートリー」。駅弁は、連絡通路の下にある「さばの店 朝市屋」。
2月6日(土)12:00
雪見列車
青森へは、新幹線ではなく、青の森鉄道で行くことにした。12時13分発の快速大湊行きに乗車し、野辺地で快速青森行きに乗換え、13時43分に青森に着く。酸ヶ湯温泉の無料送迎バスは14時発なので、ぎりぎり間に合う計算だ。
青森までの乗車時間は1時間半もあり、小宴会には十分な時間である。乗車前に、ユートリーで酒を、朝市屋でつまみを調達した。朝市屋の「さばカラ」と「鯖二色寿司」はいずれも美味で、これこそB級グルメの王道である。
大湊行きは2両編成のボックスシート車両。車内は地元客で混み合っていて、相席になった。席に座ると、さっそく酒盛りである。大騒ぎするわけではないが、昼間から酒盛りする集団との相席は迷惑だったに違いない。
三沢を過ぎると外の様子が一変、横殴りの雪が吹き荒れる薄暗い雪国になった。
2月6日(土)14:00
想定外の国際化
青森駅は良く晴れていた。路肩には大雪の跡が残っていたが、道路に雪はなかった。
酸ヶ湯温泉の無料送迎バスの発車場所は、青森駅前のアウガ駐車場横である。事前に場所を確認しておいたので迷うことはないと思っていたが、ビルの陰に停車していたので、すぐに確認できなかった。乗換時間が短いので少し焦った。中は満席だった。
酸ヶ湯温泉には約1時間で到着した。道路の状態が良かったせいだろうか、予定よりも30分も早かった。
受付は大渋滞で、特に外人客の多いことに驚かされた。部屋にトイレもない、古い木造旅館に、どうしてこんなに外人が来るのか、とても不思議な気がした。
2月6日(土)18:30
千人風呂は霧の中
部屋は8畳の和室に広縁が付いていた。5人なので2部屋に分かれたが、間取りは同じだった。全室禁煙になったという話を聞いていたが、部屋には灰皿が置いてあった。どうやら禁煙はやめたらしい。暖房はガスストーブで、部屋だけでなく、廊下やトイレにもガスストーブが置いてあった。それでも廊下は寒かった。歩くたびに軋む廊下の音が静かに過ごすことを強制しているような気がした。騒いではいけない場所なのである。
夕食前に、名物「ヒバ千人風呂」にいった。中はもうもうたる湯気で、1m先もはっきり見えない。パンフレットに掲載されているクリアな写真はどうやって撮影したのだろう。
大きな浴槽が2つあり、「熱の湯」と「四分六分の湯」という。奥にある「四分六分の湯」はかなり熱い。泉質は酸性硫黄泉で、硫黄臭はそれほどきつくないが目に入ると痛い。混浴だが、浴槽の中央あたりに男女を区切る目印が置かれている。女性が何人かいたようだったが、湯気のせいで姿は確認できず、声で女性と分かるぐらいだった。
2月7日(日)8:30
青森の朝
酸ケ湯は世界有数の豪雪地帯で、一昨年の記録的な大雪のときも、酸ヶ湯の積雪量が話題になった。この年は暖冬のせいか、想像していたよりも普通だった。それでも一夜あけたら、駐車場の車はことごとく雪の中に埋没していた。ひとたび雪が降るとすさまじい。
無料送迎バスの出発時間は8時50分である。往きと同様、車内は満席だった。外国人は最後に乗り込んできた。手慣れた感じで補助席に座ると、仲間同士で大声で話し始めた。部分的にしか聞き取れなかったが、これからニセコに行くようだった。酸ヶ湯からニセコへ、そんなにお気楽に行けるものだろうか。
昨夜はかなりの雪が降ったらしく、青森市内の様子も一変していた。2日目の目的地は津軽鉄道の五所川原駅である。できれば電車を使いたかったが、ストーブ列車の時間に間に合わないので、仕方なくレンタカーを借りた。
2月7日(日)11:20
奇跡の鉄道
車はJR五所川原駅の前に止めた。大きな駅にもかかわらず人影はほとんどなかった。対照的に、小さな津軽鉄道の駅舎はストーブ列車を待つ乗客であふれかえっていた。
津軽鉄道は、沿線の過疎化で利用客が激減し、存続が危ぶまれていた。第3セクターではないので、自治体からの赤字補填もない。この危機的状況を救ったのがストーブ列車である。東北新幹線の開通も追い風になり、今や、観光による定期外収入が売り上げの4分の3を占めるようになった。2008年にはついに黒字化を達成、まさに奇跡的な出来事である。
2月7日(日)11:40
金木まで26分間の小さな旅
この日は、一般車両1両とストーブ客車2両の3両編成。ストーブ客車の1両は読売旅行の団体客に占有されていた。
ストーブ客車には乗車券のほかに、400円のストーブ列車料金がかかる。これは年間1200万円の維持費用を賄うための措置だという。予約してあった「ストーブ弁当」を受け取り、さっそく乗車。運よく、ダルマストーブに最も近い席に座れた。
動き出すと、アテンダントの女性がスルメを焼き始めた。すると乗客が一斉に立ち上がりカメラを向ける。奇妙な光景である。
スルメは意外に早く焼ける。焼けると、スルメを買ったお客さんのもとへ急いで届ける。ダルマストーブは車両の前後にあるので、混み合った車内を頻繁に往復する。なかなか大変だ。
しばらくすると、津鉄のはっぴを着た車内販売のワゴンが入ってきた。狭い車内がさらに混雑する。スルメのほかに、飲み物や菓子などが積まれている。ストーブ列車の刻印がはいったどら焼きを2つ購入した。
しばらくすると、今度は手にマヨネーズを持った男性が現れた。
「ストーブ弁当ですか、通ですねー」
津鉄の職員で、乗客と会話しながら、スルメを買ったお客さんにマヨネーズのサービスをしている。
スルメひとつで、ここまで盛り上げるとは大したものである。
2月7日(日)12:20
太宰ファンの聖地
太宰治の生家「斜陽館」は、金木駅から徒歩10分足らずの場所にある。津軽鉄道沿線ではもっとも著名な観光スポットだが、年間の来館者は10万人程度である。それでも、「太宰治生誕○○年」などのアニバーサルイヤーには100万人を超える来館者があるらしい。
入館料は500円。見所がよく分からないまま、その大きさと豪華さに感嘆しながら、家の中を見て回った。太宰治に関心は無く、興味を引いたのは1階の金木銀行の事務室だった。銀行なのに裏口からこっそり入るようなかんじだった。太宰治の曽祖父・津島惣助は金貸しで財をなし、明治30年に金木銀行を設立した。斜陽館の建設は明治40年だから、銀行になったとはいえ、まだ金貸しの感覚だったのかもしれない。
その後、金木銀行は第五十九国立銀行(青森銀行)に売却された。斜陽館の前に青森銀行の支店がある。津島家は、売却で得た資金で地元の大地主になったが、戦後の農地改革で没落した。この豪邸もその時に売却された。
1986年に放送されたNHK大河ドラマ「いのち」は、津軽の没落地主が舞台になっていた。その家の主人は人格者で小作人からも慕われていたが、金貸しの津島家はどうだったのだろう、そんなことを考えながら見学していた。
2月7日(日)13:30
地吹雪来ず
冬の津軽の風物詩になっている「地吹雪体験」。
地吹雪とは、積もった雪が強風で舞い上がり、目の前が真っ白に染まる状態のことである。1988年から始まり、28年間で約1万2600人が体験し、そのうち約2600人が外国人観光客だという。
当日の集合場所は金木駅だった。台湾人女性が3名が加わって、この日の体験者は8名だった。会場は隣駅の芦野公園駅から徒歩5分ぐらいのところにある田んぼである。芦野公園駅までは津軽鉄道で移動し、駅舎の中でもんぺとかんじきを装着する。なぜ、芦野公園駅集合にしないのか、不思議に思った。
喫茶店「駅舎」の前にある公園内をかんじきをはいて雪上歩行する。田んぼは公園の先にある。広いといえば広いが、雪原というほどではなかった。ここで角巻を渡された。小さい毛布のようなものだが、驚くほど暖かい。支度ができたところで、田んぼに入った。後は自由である。
地吹雪の到来を待って、田んぼの中でウロウロするが、待てど暮らせど、シベリアおろしは一向にやってこない。結局、地吹雪を体験できないままタイムアップになった。残念だが、相手はお天気だからいたしかたない。予定では、このあと金木駅まで角巻ともんぺ姿で歩くらしい。こちらは時間がないので、ここで終了となった。
芦野公園駅で帰りの電車を待っていると、近くの踏切にゆるキャラが現れた。津鉄のゆるキャラで、「つてっちー」という。
この日、芦野公園では津軽まつりが開催されていて、津鉄のゆるキャラも参加していたようだ。気の毒に、電車の時間になるとお見送りに出るらしい。これで地吹雪がきたら可哀想だ。
2月7日(日)15:00
こだわりの津鉄汁
1両編成の「走れメロス」号で五所川原駅まで戻った。
五所川原駅と隣接する場所に津軽鉄道の本社ビルがある。1階にある「サン・じゃらっと」という店は、津軽鉄道サポーターズクラブが津軽鉄道から借り受けて運営している。店の中は売店と「でる・そーれ」という名の飲食スペースになっている。
売店で、「ストーブ列車石炭クッキー」と「中まで赤~いりんごジュース」を購入した。果肉まで赤いりんごは五所川原市の特産品で、りんごの皮に含まれるアントシアニンという成分が普通のものよりも4倍も多いため、皮だけではなく果肉まで赤くなるらしい。味はかなり酸味が強かった。
「でる・そーれ」で津鉄汁を注文した。
津鉄汁は、青森の地鶏シャモロックを使用した醤油味の汁に、地元の長芋で作ったすいとんを浮かべた料理だ。使っている野菜もすべて地元産だという。せんべい汁の「せんべい」が「すいとん」に変わっただけかと思ったが、店員に「せんべい汁とは違います」とはっきり言われた。強いこだわりがあるようだった。
箸入れの「はしいれメロス」が洒落ている。
2月7日(日)15:50
気になる箱物2点
青森駅に戻る途中に、2か所だけ寄り道することにした。
1つは、五能線の木造駅である。駅舎の正面に、巨大な土偶が張り付けてある。この土偶のオブジェは、地元の「亀ヶ岡遺跡」から出土した縄文時代の「遮光器土偶」をかたどったもので、しゃこちゃんと呼ばれている。以前は列車の発着に合わせて土偶の目を点滅させていた(いらっしゃいビーム)が、気味が悪いという理由で今は自粛している。
間近に見ると、馬鹿みたいにでかい。竹下内閣時代の「ふるさと創生1億円」を使って造られたものだが、駅前に人影はなく、大きな商店もない。ただの無駄遣いだったようだ。
もう1つは、鶴の舞橋である。岩木山の山影を湖面に映す津軽富士見湖に架けられた、長さ300mの日本一長い三連太鼓橋である。平成6年に建築され、すべて青森県産のひばを使用している。12月から3月までは渡ることができないが、真冬の鶴の舞橋と岩木山の美しい2ショットがネットに掲載されていた。
これを見たくて近くまで行ってみたが、橋は真横からしか見ることができなかった。あとで調べたら、この2ショットは、「福祉健康保養センターつがる富士見荘」の湖畔から見える風景で、宿泊客しか見ることができないのである。騙されたと思った。
2月7日(日)18:00
青森のマグロは至高の一品
帰りは、青森空港20時30発のJAL250便である。青森駅19時発の連絡バスに乗ればいいので、駅前で打ち上げになった。打ち上げの場所は、青森駅前アウガの地下にある「りんご箱」という店だった。
ここで食べた青森産生本マグロの味は今でも忘れられない。近海ものだから生で食べられるということなのだろう、生のマグロがこれほど美味いとは思わなかった。
何時もの要領で、鶏の手羽先やししゃもを頼んでしまったことが非難の的になった。時間の許す限り、マグロだけを食べ続けるべきだったのである。
(完)
青森県出身の作家では、太宰治よりも寺山修司のほうに馴染みがある。寺山修司は劇作家として一時代を築いた人物だが、それには興味はなく、好きだったのは競馬エッセイのほうである。競馬に人生を重ねる独特な語り口が人気を博し、ただのギャンブルにすぎなかった競馬はロマンになった。
寺山が競馬エッセイを書き始めたのは、シンザンが三冠を獲る前年くらいからで、ミスターシービーが日本ダービーを制覇する直前に急死した。その20年間には、アローエクスプレスとタニノムーティエ、ハイセイコーとタケホープ、カブラヤオーとテスコガビー、そして、トウショウボーイとテンポイント、など幾多の歴史に残る名勝負があった。この時代は、今のような世界レベルの良血馬はほとんどおらず、中小の牧場の生産馬も多かった。そんな馬が活躍するからドラマになった。
寺山的視点で競馬を見れたのは、オグリキャプぐらいまでだったかもしれない。今、日本の競争馬は血統も能力も世界レベルまで向上したが、競馬自体はただのギャンブルに堕落してしまったように思える。あの楽しかった時代が懐かしい。
記:2018年4月