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2018年2月

出雲大社


4年前、高円宮典子さまと出雲大社の神職、千家国麿さんの婚約内定のニュースが話題になった。
天皇家の始祖は言うまでもなく天照大神(あまてらすおおみかみ)、高天原(天空)の太陽神だ。一方、出雲国造家の先祖は天穂日命(あめのほひのみこと)である。天穂日命は天照大神の子供だから、お二人は遠い親戚ということになる。しかし、話はもっと複雑なのである。

皇室の祖先神を祀っている神社を神宮と呼ぶ。あらゆる神社の頂点に君臨するのが天照大神を祭神に祀る伊勢神宮である。ところが、伊勢神宮の権威に服しない神社がひとつだけある。それが出雲大社だ。出雲大社の祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ)、葦原中国(下界)を治める神である。天照大神は下界も支配したいと思うようになり、大国主神のもとへ使者を送った。その使者に選ばれたのが天穂日命だった。しかし、国を譲るよう説得するはずが、母を裏切り、大国主神の家来になってしまったのである。

天皇家と出雲国造家の婚姻は、伊勢神宮と出雲大社、天照大神と大国主神、天空と下界、様々な対立関係を乗り越えての慶事だった。2018年は、そんな神話の世界に触れる旅である


2月10日(土)8:00
鳥取の朝は雨

この冬は記録的な寒波が到来し、各地で大雪の被害が出ていた。特に、北陸の大雪は連日のニュースになっていたから、当然、鳥取や島根も影響を受けているに違いないと思っていた。意外にも鳥取の積雪量は平年よりも少なく、鳥取空港の朝の気温も5度で、まさかの雨が降っていた。

今回のレンタカー
ニッポンレンタカー/ウィッシュ


2月10日(土)8:30
冬の砂丘を歩く

最初に向かったのは鳥取砂丘である。レンタカーの店員に「こんな日に砂丘を歩くのはやめたほうがいい」と言われたが、もとより歩くつもりもなかった。砂丘会館に車を停め、雨はまだ小降りだったので、傘を持たずに砂丘に入った。

朝早い時間とあって、砂丘の中に観光客はいなかった。一面雪に覆われていたが、正面には大きな池が出来ており、部分的に土も露出していた。人がいないせいで想像していたよりも小さく感じた。「大すりばち」と呼ばれる斜面もとても40mもあるようには見えなかった。

オアシス
砂丘の地下水が湧き出して作る池。晩秋から初秋にかけて出現


雪の中を歩くつもりはなかったのに、「大すりばち」の上に無性に立ってみたくなった。

大すりばち
砂が強い風で移動してできた大規模なスリバチ状の窪んだ地形


砂丘会館に戻って、遅い朝食を取った。「名物らっきょバーガー」はこの時間はまだ準備中だったので、レストランのほうに行って、「名物あごカツカレー」や「名物砂丘ビール」などを注文した。

あごカツカレー
アゴをすり身にして揚げたカツとアゴだし入りのルー


2月10日(土)10:00
明治という時代

仁風閣は鳥取城の扇御殿跡に建てられた西洋館で、国の重要文化財に指定されている。当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として1907年(明治40年)に建てられたものである

明治という時代は、天照大神を最高神として、万世一系・神聖不可侵である天皇の神格化が推し進められた時代だった。行幸啓は皇族の権威を地方に示すための行事だった。明治末期になると、明治天皇の行幸は軍事目的に限定されるようになり、地方視察は皇太子の役回りになった。山陰行啓は最初の公式行啓で、これを契機に、松江や鳥取では鉄道や道路などのインフラ整備が行われた。ただ、日露戦争後の厳しい財政事情から質素を旨とする通達が出され、宿泊施設は既存のものが利用された。新築されたのは仁風閣だけだったらしい。


仁風閣のパンフレットには次のように書かれている。
「フレンチルネサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺二階建で、バロック風な軒飾りがほどこしてあり、・・・」
何のことやらといったかんじだ。

二階は皇太子の生活空間で、御座所、御寝室、御食堂があり、一階は随員が使用する施設になっている。とても質素とはいいがたいが、建前は旧鳥取藩主池田仲博侯爵の別邸として建てたということだったのだろう。遠目には美しく見える建物も、間近で見ると外壁の痛みがひどく、また、壁板の隙間も散見された。廊下や階段の軋む音も気になった。

ところで、鳥取市は池田氏鳥取藩32万石の城下町である。初代藩主・池田長吉は、池田恒興の三男で、輝政の弟である。池田輝政は豊臣恩顧の大名だが、関ヶ原では徳川側につき、その武功により播磨姫路藩の初代藩主となった。弟の長吉も兄に従い徳川側について鳥取藩を得た。後に徳川家の血筋が入り、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格を与えられた。にもかかわらず、明治維新では官軍側につき、維新後華族になった。
なんと世渡りの上手な家系であろう。


2月10日(土)11:30
因幡の白兎

白兎神社は、日本神話に登場する因幡の白兎を主祭神とする。

白兎神社
神話にちなみ、皮膚病、やけど、縁結びに霊験あらたかな神社


砂像の説明板には、因幡の白兎は「日本最古のラブストーリー」であると書かれていた。

大国主神の少年時代は大穴牟遅(おおあなむじ)という名で、意地悪な兄神達にいじめられていた。
意地悪な兄神達は、絶世の美女・八上比女に求婚するため因幡へ行くことにした。大穴牟遅はお伴を命じられ、兄神達の大きな荷物袋を担がされた。気多の前に来た時、裸の兎と出会う。兄神達は「海水を浴びて日に当たれば治る」と嘘を教え、その通りにしたら、以前に増して痛みが激しくなった。憐れに思った大穴牟遅が正しい治療法を授けると、兎の身体はもとに戻った。命を救われた白兎の口添えにより、大穴牟遅が八上比女と結ばれることになった。

そんな話である。この話には後日譚があるが、それはあとで。


2月10日(土)12:30
地味でやさしい鳥取県民

白兎神社の次は倉吉白壁土蔵群に行く予定だった。その前に昼食だが、ここまできたからには鳥取名物の牛骨ラーメンだ。白壁土蔵群の近くの牛骨ラーメン屋を検索すると、「香味徳」という店がヒットした。「食べログ」の評価もいいので、この店に行ってみることにした。

店は倉吉のメインストリート県道22号から少し外れた住宅街にあった。小さな店で、4人掛けのテーブルが4卓、2人用テーブルが1卓、カウンター席が6席あるだけだ。昼時の12時半の入店だったが、中には12人の客がいた。雰囲気が少し変だった。ラーメンをすすっている客は一人だけで、後は漫画を読んでいるか、ボーっとしている。


しばらくして事情が分かった。店主が一人で調理しているのだが、その手際が恐ろしく悪く、料理が出てくるまでに10分ぐらいかかるのである。食べる時間も10分ぐらいだから、料理にありつけるのは店の中で1組だけということになる。想定外の待ち時間のせいで、倉吉白壁土蔵群の観光は中止せざるを得なくなった。結局、ラーメンが出てきたのは入店から70分も後だった

薄いチャーシューに輪切りのゆで玉子が乗って550円、見た目は貧相だが味は悪くはなかった。しかし、70分も待って食べるような代物ではない。近くには大阪王将もあり、牛骨ラーメン屋は他にもある。「こんな店には二度と行かない」、普通なら誰しもそう思うはずだ。しかし、こんなに待たせても平然としているし、客も催促したり文句を言ったりもしない。何故だろう。
鳥取県の県民性を調べたら、「地味でやさしい」と書いてあった。納得。


2月10日(土)15:00
奇妙なモニュメント

この日の最後は境港の水木しげるロードである。途中、米子駅に寄って、「空を駆ける鉄道」のモニュメントを見学した。明治35年、境港~米子~御来屋間に山陰地方で最初に鉄道が開通した。これを記念したモニュメントで、宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」をイメージしている。

鳥取まで鉄道が開通したのは明治40年である。皇太子の山陰行啓ために整備された。山陰行啓は明治40年5月15日から6月2日まで行われた。5月15日に軍艦で境港に入港し、境港から鳥取までは列車で移動した。仁風閣には5月18日から3日間滞在した。

米子から先は鬼太郎一色になる。JR境線は運行列車のほとんどが鬼太郎列車で、0番(霊番)ホームから発車する。駅にも妖怪名が付けられていて、米子が「ねずみ小僧駅」、境港が「鬼太郎駅」といった具合だ。駅の中の方が面白かったかもしれない。


2月10日(土)16:00
水木しげるロードはリニューアル中

境港に着いた時は16時を過ぎていた。
この時間になると雨を含んだ雪は凍り付き、車も走りにくくなっていた。有料の駅前駐車場になんとか車を入れ、そこから水木しげるロードを歩いた。

もともとは、シャッター商店街の再生のためのプロジェクトだった。それが、2010年には「ゲゲゲの女房」の影響で年間観光客数が370万人を超え、2016年には累計観光客数が3000万人を超えた。今や、鳥取砂丘を凌ぐ一大観光地になっている
最近、境港には大型客船が停泊するようになり、クルーズ客のインバウント消費があるのだという。水木しげるロードにも大量の中国人が押し寄せており、それに対応するためなのか、道路を一車線にして歩道を広げるなどのリニューアル工事を行っていた。

妖怪
生物学的に訳が分からないもの


時間が遅いので、観光は「妖怪神社」と「ゲゲゲの妖怪楽園」だけになった。
「妖怪神社」のご神体は、高さ約10尺(約3m程)近くに及ぶ黒御影石と、樹齢300年の欅である。手水舎は目玉親父だ。御朱印も用意してあるのかと思ったが、そこまで悪乗りはしてなかった。
「ゲゲゲの妖怪楽園」に向かって歩いていると、前方に「サラリーマン死神」が立っていた。観光客の多い時間帯にはもっといろんなキャラが登場するのかもしれない。寒いのに大変だ。

ゲゲゲの妖怪楽園
水木しげる記念館の裏にある妖怪テーマパーク


「ゲゲゲの妖怪楽園」は子供向けのアトラクション施設だが、年配者にはただのお土産屋だ。買物をした後、定番の妖怪ラテを注文した。また、帰る道すがら、妖菓と書かれた菓子類をいくつか買った。短い時間だったが、それなりに面白かった。

水木しげるは子供の頃、近くに住む老婆から妖怪の話を聞かされた。天井のシミを見つければ「天井なめのせい」だといい、家がミシミシと鳴ると「それは家鳴りのせい」だという。つまり、人間が理解できない現象はすべて妖怪の仕業なのである。現象だから姿形はないはずだが、それをあえて絵にしたのが鬼太郎の世界である。ここに押し寄せる外国人に、この世界感が分かるのだろうか。


2月10日(土)18:30
六十路の宴

今宵の宿は、玉造温泉「佳翠苑 皆美」である。境港からは車で約1時間、着いた頃にはすっかり暗くなっていた。
玉造温泉は日本最古の湯と言われていれ、清少納言の「枕草子」にも出てくる島根の名湯だ。玉湯川沿いに高級旅館が数多く立ち並んでおり、その中でも絶大な人気を得ているのが「佳翠苑 皆美」である。

M君の還暦祝いとあって、部屋は特別室があてがわれた。12畳と8畳の和室で、それに4畳の上り座敷と広縁が付いていた。掛け軸や花瓶などの調度品も品が良く、温泉などの館内施設も充実していた。いままで利用した旅館の中では文句なしの最高級だった。

佳翠苑 皆美
創業百二十余年の宍道湖畔の老舗旅館


君歩む 六十路の道の きびしさが 今日の実りと 花ひらくかな

夕食に添えられていた女将からの還暦祝いの句である。六十路は「むそじ」と読む。夕食の「蟹すき鍋コース」は飽きるぐらいの蟹尽くしで、最後は少し食傷気味になった。

車の中で、玉造の名前の由来が話題になった。「鉄砲玉を造っていたのではないか」という意見も出たが、中らずと雖も遠からず。鉄砲玉ではなく、勾玉だった。三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)もこの地で造られたと言われている。


2月11日(日)9:00
日本最古のパワースポット

翌朝、出雲大社の前に、神魂神社に行った。
出雲国造の大祖、天穂日命(あめのほひのみこと)の創建で、出雲大社ができるまでは、ここが古代出雲の中心地だった。神話の最初に登場する伊弉冊大神(イザナミ)、伊弉諾大神(イザナギ)を主祭神としている。

神々の系譜
イザナミ、イザナギから神武天皇までの系譜


竹製の神籬(ひもろぎ)の後ろに、ブルーシートが置かれた場所がある。写真では分かりにくいが、戦時中の防空壕らしい。埋めればいいのに、そのままにしているため、「謎の穴」と呼ばれ、強力なパワースポットに祭り上げられている。

御朱印をもらいに社務所に行くとまだ閉まっていた。透明な窓ガラス越しに中の様子を見ることができるが、人がいるのかどうかまでは確認できなかった。朝の9時では無理だったようだ。我々は諦めて次に行くことにしたが、境内には諦めきらずにウロウロしている人がいた。社務所が開くまで待っているつもりのようだ。ここの社務所は開いていることが珍しいらしく、そのせいで御朱印はレアもの扱いになっているという。あの人は無事ゲットできたのだろうか。


2月11日(日)10:30
和風駅舎の最高傑作

神魂神社から出雲大社に向かった。
鳥取県内では無料だった山陰自動車道もここでは有料だった。出雲インターを出ると周りは延々と広がる田園地帯。しばらく行くと民家や工場も見えてくるが、やはり田畑が目に付く。民家が密集してきたのは旧大社駅の間近に来てからだった。

旧大社駅は大正13年の建造で、国の重要文化財に指定されている。和風建築様式を取り入れた格調ある木造建築で、大正ロマンを感じるノスタルジックな駅舎は和風駅舎の最高傑作と言われている。1990年のJR大社線の廃止後も、当時のままの状態で保存されており、今にも列車が到着しそうな趣きである。
もう少し出雲大社に近ければ、廃線の憂き目にあわずに済んだかもしれない。


2月11日(日)10:30
ディープな神話の世界

宇迦橋の大鳥居を過ぎると賑やかな門前町が現れ、その先に出雲大社の入り口「勢溜」の鳥居が見えてきた。

出雲大社のHPには、大国主神の国譲りについて次のように書かれている。
「大神様は国づくりの後、築かれた国を天照大御神様へとお還しになりました。そこで天照大御神さまはおよろこびになり、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。」


古事記の記述は少し違う。ほとんど、恐喝である。
天照大神は荒くれ者を大国主神のもとに送り、剣を地面に突き刺して国を譲るよう迫った。大国主神は脅迫に屈し隠居してしまう。天照大神は、大国主神に「現世は私が支配するから、あなたは幽界を支配しなさい」と告げた。

国譲りの場面
新日本風土記「古事記への旅」で挿入されたアニメーション


出雲大社については事前に勉強してきたつもりだったが、神楽殿の大注連縄ことを調べ忘れるという痛恨のミスを犯してしまった。正確に言えば、大注連縄のことは知っていたが、それは拝殿にかけられているものと思い込んでいたのである。そのため、拝殿の注連縄を見てもおかしいとは思わず、「こんなものだったけ」と納得してしまった。ここまで来たというのに、何という事だろう。

それに、拝殿のお参りが2礼4拍手1礼であることも、忘れていたような気もする。


国宝の本殿も遠目に見るだけだ。
拝殿の後ろの八足門からは本殿を正面に見ることがきるが、近寄ることはできない。御祈祷を申し込まないと中には入れないのだろうと思ったが、あとで調べたらそうではなかった。一般客の御祈祷は拝殿で、団体客は神楽殿で行われ、どちらにしても本殿に近寄ることはできないのである

寒川神社の御朱印帳を持参していたが、これに天下の出雲大社の御朱印をもらうのは気が引けた。やはり、出雲大社の御朱印帳を購入し、それに御朱印を頂くのが礼儀だと思った。しかし、後悔先に立たずで、購入した出雲大社の御朱印帳は文房具屋で売っているものよりも粗末だった。御朱印にも参拝と書かれているだけで、神社名が書かれていなかった。正直、落胆した。

出雲大社
ご本殿の御朱印


2月11日(日)11:30
過度な期待で撃沈

昼食はやはり、日本三大蕎麦のひとつ出雲そばだ。出雲大社の参道入口から徒歩5分のところにある「かねや」に入った。昭和四年創業の老舗で、出雲大社の御用達として知られるお店である。人気店だけあって、玄関の横には有名人の色紙が所狭しと貼られていた。否が応でも期待してしまう。

空いていたので奥の座敷席に座り、割子そばの4段(薬味だけ、薬味+とろろ、薬味+生玉子、薬味+大根おろし)を注文した。注文した蕎麦を持っている間にも次々と客が来店し、すぐ満席になった。

割子そばの食べ方というのがある。まず一番上の割子にだし汁を全部入れて蕎麦を食し、食べ終わったら残っただし汁を二段目にかけて食す、というふうに、だし汁を使い回しながら上から順に食べてゆくらしい。そうとは知らず、1段づつ少量のだし汁をかけて食べていた。だし汁の量が少なかったのだろうか、蕎麦が固くてあまり美味くなかった。
最後に蕎麦湯をもらった。ドロッとした濃厚な蕎麦湯で、甘いだし汁とよく合って、蕎麦よりも美味しかった。


2月11日(日)13:30
明治時代の爪痕

旅行の最後は松江城である。
一畑電車と並走するように宍道湖沿いを一時間ほど走り、松江市役所まで来たところで松江城の天守閣が見えた。国宝に指定されてから随分人気が出たらしく、駐車場は満車だった。

二の門跡まで歩くと奇妙な光景に出くわした。天守閣への入口の前に神社があり、その神社の隣には洋館が建っていた。およそ城内とは思えない光景である。
神社は松江神社といい、明治時代の創建。洋館は興雲閣といい、明治天皇の行幸の際の宿泊所として建てられたものである。明治初頭の廃城令によって天守閣以外はすべて払い下げられ、どのように使おうが自由になった。乱暴な時代である。

興雲閣
明治天皇の行幸は実現しなかったが、皇太子の山陰行啓の宿泊所として使われた


松江城は昭和10年に国宝に指定されたにもかかわらず、昭和25年重要文化財に格下げされた。判然としない歴史的事実が多いというのが理由だった。
血統が確認できない名馬みたいなものである。
以来、新しい知見を探し続けたところ、松江神社の中から「慶長十六」などと墨書きされた2枚の棟札が発見された。棟札とは、建築物の造営や修復の際に張り付ける、建物の由緒や建築年月日などを記した札のことである。松江城を表す文言はなかったものの、天守の柱に残る札跡にピッタリ一致したことから、松江城天守閣は「慶長十六」創建と確認された
この結果、再び国宝に指定されることになった。

小振りだが、綺麗な天守閣である。
階段が急だが、天守閣とはそういうものなので、それ自体は気にはならなかった。それよりも、写真も満足に撮れないほど薄暗い内部に閉口した。


2月11日(日)14:30
神話の旅の締めくくり

この時間になって雪が強くなった。

松江城北側の堀沿いを塩見縄手といい、松江市伝統美観指定地区になっている。城下町の風情が残り、とても雰囲気がいい。この寒い中、堀川めぐりの遊覧船がひっきりなしに運行していた。冬はコタツ舟らしく、こんな日の方が風情があっていいのかもしれない。

塩見縄手には小泉八雲記念館小泉八雲旧居がある。
小泉八雲記念館は、遺品、著書、関係図書・資料などを1千点以上展示している。生い立ちを書いたパネルだけでも、かなり読み応えがあった。それによると、小泉八雲は、古事記・日本書紀を唯一の神典とする国家神道には否定的で、土俗的な民間信仰の中にこそ神道の本髄があると考えていた。簡単に言えば、天照大神の神話よりも、田の神、山の神など八百万の神々の話ほうが好きだった。では、八百万の神々と妖怪は何が違うのか。どちらも目に見えない超常現象だが、幸福をもたらす超常現象が神で、禍をもたらす超常現象が妖怪である。天皇家、小泉八雲、水木しげるが同じレベルで繋がっているのが面白い。


小泉八雲旧居は国の史跡である。八雲が松江で暮らしたのはわずか1年3ヶ月で、そのうちの半年をこの家で過ごした。ギリシャ人の小泉八雲には松江の寒さが辛かったようで、「日本の家は紙でできている」とこぼしていたらしい。多分、障子のことだろう。この家の入口も障子でできていた。部屋は硝子戸なのに、どうしてここだけ障子なのだろう。

小泉八雲の机
机は通常より背が高い。眼鏡をかけなかった八雲は原稿に目を擦り付けるようにして仕事をしていた


2月11日(日)16:30
意外な名店

松江駅に着いたのは16時、予定よりも1時間も早い。レンタカーを返却した後、居酒屋が開くまでの時間潰しが必要になった。
駅ビルの土産物売り場で時間を潰し、16時半になったところで、飲み屋のフロアに移動した。「旬鮮とれたて市場 魚心」という名前の店に入った。チェーン店ではなく、地元の魚屋の直営店だという。
旅行の下調べをしていて、「松江に住んで5年になるが、美味いものに巡り合ったことがない」というネットの書き込みを見つけた。それが頭に残っていて、正直、まったく期待していなかったのだが、ここは何を食べても美味かった。特に、鳥の唐揚げは絶品だった。松江にもいい店はある。


2月11日(日)19:30
プレミアチケット

松江から19時27分発のサンライズ出雲に乗車した。
横浜到着が翌朝6時44分だから、約11時間の夜の旅である。ワクワクしながら列車の到着を待った。

客室は7号車2階の個室B寝台シングルで、愛煙家のT君だけ喫煙可能な6号車だった。
一人用の狭いベッドの他には何もない。小物が置ける棚と頭の横に幅30cmぐらいの荷物置場があるだけだ。靴も部屋の中で履き替えることができるが、30cmぐらいの幅しかないので、ドアを閉めたままだと少し辛い。枕と毛布と寝間着は用意されているが、アニメティはなかった。

個室B寝台シングル
小さな空間がとても楽しい


乗車するとすぐ酒盛りになった。4人隣同士の部屋なので、ドアを開けながら小声での小宴会である。
1時間ほどでお開きにし、寝る準備に入った。想像していたよりも揺れは少なく、音も静かである。夜は寒いという話も聞いていたが、温度調節できるヒーターがあり、暑いくらいだった。寝られたのは2時間ぐらいで、あとはウトウトしながら時間を過ごした。

寝台特急の乗車券は入手が難しい。インターネット予約はできず、「みどりの窓口」に並ぶしかない。1か月前の10時、茅ヶ崎駅の「みどりの窓口」の係員が2人がかりで端末を叩いて取ってくれたプレミアムチケットだった。横浜に近づくにつれ、名残惜しくなった

平塚のあたりで夜明けになった。
横浜には定刻どおりに到着、長いようであっという間の夜行列車の旅だった。

(完)


寒川神社の神門に取り付けられる「迎春ねぶた」は正月の風物詩である。2001年から干支をテーマに作成されてきたが、一巡したため、2013年からテーマが古事記の神話に変更された。

2013年「大八洲(おおやしま)」、2014年「天岩戸(あまのいわと)」、2015年「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八岐大蛇退治」、2016年「海幸彦山幸彦」 、2017年「稲羽の素菟(いなばのしろうさぎ)」。2018年は神話ではなく、御社殿竣功から20周年という節目を迎えるということで、その記念ねぶたになった。来年は、「国譲り」か「天孫降臨」になりそうだ。

さて、因幡の白兎の後日譚である。
八上比女(やかみひめ)を娶った大国主神は、嫉妬に狂った兄神達から執拗に命を狙われることになった。命からがら根の国に逃れると、そこでスサノオの娘・須勢理毘売 (すせりびめ)に出会い恋に落ちた。父親のスサノオは大国主神に太刀と弓矢を与え、「それでお前を殺そうとした兄神達を倒せ」と告げた。彼は言われた通りに兄神達を倒し、ようやく家に戻ることができた。家では八上比女が行方知れずの夫を待ちわびていた。しかし、帰ってきた夫は女連れで、しかも正室にしたと言う。激怒した八上比女は子供を置いて実家に帰ってしまった。
これが日本最古のラブストーリーの顛末である。それに、大国主神もスサノオの血縁だから須勢理毘売との結婚は近親相関である。神代の世界は現代以上に乱れていたようである。


記:2018年3月