
2018年5月
世界一危険な国宝がある。
鳥取県にある三徳山三佛寺の奥院「投入堂」である。垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、間近で見るためには厳しい山道を辿っていかなければならない。滑落事故があとを絶たないため、一人での入山はできず、悪天候の場合にも入山禁止になる。
T君は前々からここに行きたかったらしく、梅雨入り前の5月中旬に、参拝計画を立てた。一人では入山できないため、M君とS君が同行することになった。自分も誘われたが、運動不足の老体にはあまりにもリスクが大きく、即座に辞退した。ただ、参拝の後は、城崎温泉に宿泊し、翌日は伊根と天橋立を観光する予定だというので、城崎温泉から合流することにした。
城崎温泉には、新幹線で姫路まで行き、姫路から「特急はまかぜ」に乗り換える。乗換ついでに姫路城を見学する。天橋立観光のあとは、T君達と別れ、奈良に行ってみることにした。
5月19日(土)9:50
投入堂は入山禁止
新幹線に乗るため、茅ケ崎から小田原に向かう東海道線に乗車した。その車中、iPhoneがやたらに振動するので見てみると、T君たちのLINEだった。天候不順で鳥取まで飛行機が飛ばないかもしれないということで騒いでいた。一人旅になりそうだなと思っていたら、2時間ほどして、「鳥取空港に無事着きました」という連絡が来た。やれやれと思ったのも束の間、姫路駅に到着する直前に、「本日は悪天候のため入山禁止になりました」という残念なお知らせである。周到に準備していたというのに運の悪いことである。
姫路駅から姫路城までは徒歩20分である。道は真っすぐなので迷うことはない。歩いても良かったが、早く着きたかったので、バスにした。観光用のループバスを待っていたら、路線バスの運転手さんがやってきて、「路線バスでも同じ料金(100円)で城の前まで行けます、出発は路線バスのほうが先に出ますよ」と言うので、路線バスに乗り変えた。
姫路城の大手門前は予想通り混雑していた。
5月19日(土)10:50
奇跡の城
姫路城が世界文化遺産に登録されたのは1993年のことである。「法隆寺地域の仏教建造物」とともに、日本で最初の世界文化遺産になった。入城者数は100万人前後で推移していたが、平成の大修理のあとから急増し、最近では200万人を超えている。そのせいで、入城口や大天守入口で入城制限がかかることも珍しくないという。旅行者にとって、こういうのが一番困る。
大手門の先に三の丸跡がある。団体の記念撮影が行われていたが、それほど混み合ってはいなかった。心配は杞憂に終わり、入城口も人はまばらで、待つことなく入城できた。
城の面白さは敵の侵入を防ぐ様々な仕掛けである。姫路城は城郭が完全な形で残っているため、それが確認できる。じっくり観察しながら大天守を目指せばいいものを、何故か足早に先を急ぐ人が多く、抜かれると不安になって、こちらも足早になってしまった。
大天守の入口でも待つことはなかった。
「姫路城大発見」というiPhoneアプリがある。iPhoneをかざすと、AR(拡張現実)やVR(フルCG)による復原CGによって、現存しない建物が再現されたり、在りし日の姿を見る事が出来たりする。事前にインストールしていたのに、完全に忘れていた。最近はこういうケアレスミスが多い。
大天守の中は天守閣としてはかなり広かった。しかし、展示物がないため、順路に従って淡々と最上階を目指すだけになった。最上階は、何故か、神社になっていた。通常、天守閣の最上階は四方を監視できるような造りになっているが、姫路城の場合はこの神社のせいだろうか、北側(祠の後ろ)が狭くなっていた。
5月19日(土)15:10
城崎にて
姫路から「特急はまかぜ」に乗って城崎温泉に向かった。列車は空いていると聞いていたが、その通りだった。姫路から1時間43分で城崎温泉駅に到着した。日本海に近いだけあって、半袖のTシャツでは少し肌寒かった。
特急の到着にあわせて、無料の送迎バスが待機している。出入口のところにいる係員に宿の名前を告げると、無料送迎バスまで誘導してくれる。この日の宿「湯楽」の名前を告げると、次のバスまで待ってくれと言われた。送迎バスは2台あり、送り先の宿が違うらしい。しばらくして、もう一台のバスがやってきた。
「湯楽」は新しい旅館で、温泉街のはずれの、民家に囲まれた狭い路地の先にあった。外の風情はともかく、館内は綺麗で、接客も悪くなかった。
投入堂を断念したT君のグループは予定を切り上げて城崎に向かった。城崎温泉駅に着いたのは15時40分頃だった。列車は特急ではないので、無料送迎バスは待機していない。宿にお願いして、駅まで迎えに行ってもらった。
16時にやっと全員揃った。
5月19日(土)16:30
外湯巡り
部屋で浴衣に着替え、タオルの入った籠と無料入浴券を持って、外湯巡りに出た。
玄関で下駄を借りることにしたが、鼻緒が食い込んで痛くて歩けなかった。しかたがないので、木のサンダルにした。下駄よりは楽だったが、それでも長い距離は歩けそうになかった。
昔は普通に履けていた下駄やサンダルがこれほど苦痛になるとは思いもしなかった。
カランコロンと音を立てながら、温泉街を歩いた。城崎は歴史ある温泉地だが、歴史を感じさせるような雰囲気はない。昭和の懐かしい温泉街といった風情である。しばらく歩くと、大谿川が見えてきた。写真でよく見る景色である。
外湯は7つある。夕食前に大谿川沿いにある地蔵湯、柳湯、一の湯、そして、城崎温泉駅の隣にあるさとの湯の4箇所に行き、夕食後に宿に近い御所の湯、まんだら湯、鴻の湯の3箇所を回って、完全制覇である。
外湯はいずれも小さな共同浴場で、設備は今どきのスーパー銭湯にも劣るが、そんなことは大して気にもならなかった。熱いお湯と、帰り際に履物をサッと出してくれるサービス、浴衣姿で街中を闊歩する文化はとても楽しかった。外国人が多いことにも驚いた。それも、浴衣姿に下駄履きで、日本人よりも楽しそうに見えた。
「湯楽」には大浴場と貸切風呂がある。夕食のあと、貸切風呂が利用できたが、外湯巡りが残っていたので行かなかった。大浴場は翌朝利用したが、10人ぐらいが入れる程度の小さな風呂だった。基本は外湯ということなのだろう。外湯の朝一番の入湯者は「一番札」がもらえるということをあとで知った。1名様限定だが、知っていればチャレンジしたのに、少し残念。
夕食は部屋食だった。注文したのは春爛漫コースで、香住カニ、但馬牛、活鮑、活海老、刺身、などなど、テーブルに載りきらないほど盛り沢山だった。ネットの口コミでは、美味しいという意見が圧倒的に多かったが、それほどでもなかった。但馬牛とのどぐろの塩釜焼きは美味しかったが、全体的には可もなく不可もなしといったところか。
5月20日(日)9:50
初めての「たんてつ」
前日、城崎温泉に向かう列車の中から、1両編成の薄汚れた小さな列車を目撃した。その時、「面白いな、あれ。いつか乗ってみたいな」と思ったが、まさか翌日、本当に乗ることになるとは夢にも思わなかった。2日目の行程はT君まかせだったので、詳細を確認していなかったのである。小さな電車は京都丹後鉄道、通称、「たんてつ」だった。
実は、京都丹後鉄道という会社は存在しない。経営母体は北近畿タンゴ鉄道という第三セクターである。この会社が車両や線路などの施設を保有し、鉄道の運行は「WILLER TRAINS」という民間会社が行っている。おそらく、赤字はすべて北近畿タンゴ鉄道が負担し、自治体がそれを補填する形になっているのだろう。日本の第三セクター鉄道の中で一番赤字額が大きいらしい。
豊岡駅を9時51分に発車した列車は、山間の田園地帯を縫うように走り、11時3分に天橋立駅に到着した。豊岡ではガラガラだった車内も、天橋立に着くころには通路まで人で埋まっていた。赤字路線というかんじではなかったが、平日は閑散としているのかもしれない。
5月20日(日)12:40
伊根湾めぐり
天橋立駅の駅前から伊根行きのバスが出ている。つなぎが悪くて、38分待ちである。1時間の待ちならば天橋立を先に観光できるのに、38分というのは実に中途半端だ。しかたがないので、近くの食堂の2階でビールを飲みながらバスが来るのを待った。
伊根湾に入り、舟屋の家並みが見えてきた。
海に面して建てられた建物の1階が舟屋(舟用ガレージ)、2階が居間になっている。「日本のヴェネチア」とも呼ばれ、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。しかし、過疎と後継者不足で、いずれ多くが廃屋になる可能性がある。
その意味では、今のうちに時間をかけて観光しておくべきだったのかもしれない。約25分間の船の旅だが、伊根観光としては少々消化不良だった。
5月20日(日)12:40
最後の日本三景
天橋立駅に戻った。
日本三景のうち、天橋立だけは行ったことがなかった。宮島や松島に比べると見所が少なく、山の上にある天橋立ビューランドに登って全景を見れば、それでほぼ目的を達してしまう。日本三景とはいえ、内心小馬鹿にしていた。
再び、天橋立駅に戻った。
ここでM君とはお別れになった。なんでも、駅前のホテルに宿泊し、翌日は金引の滝を見に行くのだという。
M君を見送った後、事件が起きた。
15時34分発の列車に乗車し、宮津と福知山を経由して、18時8分に京都に着く予定だった。ところが、4月のダイヤ改正で、15時34分の列車が廃止になっていたのである。最も早い列車は16時19分だから、京都に着くのは1時間遅れの19時8分になってしまう。予約しておいた指定席券はすべてフイになった。
この期に及んでじたばたしても始まらない。16時19分までの間、天橋立を大天橋の先まで歩いてみることにした。小天橋を渡っている時、突然、ロープが張られ、早く渡れと催促された。船が通る時間になったからだという。勝鬨橋のように橋が跳ね上がるのかと思ったら、90度回転して道を作る仕掛けになっていた。
5月21日(月)7:30
奈良の朝
福知山から乗車した「特急きのさき京都行き」は、始発だったので、自由席に座ることができた。京都には19時8分に到着、ここでT君たちとはお別れである。二人は新幹線で横浜に帰っていった。こちらは奈良に向かった。この日の宿に、JR奈良駅の前にあるスーパーホテルを予約してあった。ホテルのチェックインは21時近かった。
疲れていたはずなのにあまり眠れなかった。睡眠負債は溜まる一方である。朝、5時半にはすっかり目が覚めてしまい、窓の外を見れば、奈良駅の駅前はまだ閑散としていた。
朝食を取って、ホテルを出たのが7時20分。さすがにこの時間になると、駅前も混雑しており、東大寺行きのバス停にも高校生の行列ができていた。普通の旅行者は、平日の朝の混み合ったバスには乗らないものらしい。東大寺・春日大社前で下車したのは自分一人だけだった。
5月21日(月)7:40
早朝の東大寺
東大寺南大門の開門は7時半と早い。
南大門が開かないと中に入れないというわけではないが、南大門を通って大仏殿に行くのが参拝の基本である。大仏殿は世界最大級の木造建築だが、創建から2度にわたって焼失している。現在のものは江戸時代の再建で、柱にする木材が調達できなかったため、幅が11間(86m)から7間(57m)に縮小された。
人が少ないこの時間帯がいい。南大門越しに見る大仏殿は左右が木々に隠れ、巨大だった往時の雰囲気を感じることができる。大仏殿に近づくにつれ、気分が高揚してくるのが分かった。
大仏殿は回廊の左側が受付になっている。受付からしばらく歩くと、青々とした芝生越し、その威容が見えてくる。この角度から見る大仏殿が妙に新鮮だった。
お堂の左側から入り、大仏をお参りしたら、時計回りに堂内を歩いて、右側の出口から外に出る。大仏を見るのは3度目だが、テレビや写真で幾度となく見ているので、特別に感慨もなかった。出口のところで、御朱印を頂いた。
5月21日(月)9:00
再建中の興福寺
東大寺から興福寺へは徒歩15分ぐらいだ。9時近くなって、奈良公園には「しかせんべい」の屋台が営業を始めた。不思議なもので、鹿は屋台に置いてある「しかせんべい」を食べようとしない。「しかせんべい」を買ったお客さんにだけに群がってくる。最近は「しかせんべい」を食べなくなったと聞いていたが、そんなことはなかった。奪い取るように食べられてしまった。
興福寺は、公園の中に伽藍があるようなかんじで、寺の雰囲気がない。南大門や、中金堂とその回廊など、中心となる建物が消失してしまったためである。中金堂は再建中で、10月落慶の予定である。南大門や回廊の土台も復元されていることから、いずれ建物のほうも再建されるのだろう。
9時になって、阿修羅像のある国宝館と東金堂を参拝し、興福寺をあとにした。
中学の修学旅行では、猿沢の池の近くの宿に泊まった。玄関を出ると、柳があり、その向こうに五重塔が見えた記憶がある。行ってみると、そのような場所に玄関のある旅館はなかった。ロケーションが変わってしまったのか、記憶が不確かなのか、今となっては確かめようもない。
5月21日(月)13:00
小さくなってしまった法隆寺
中学の修学旅行は、金閣寺から始まり法隆寺で終わった。
旅行の前に担任の先生から、お寺のことは事前によく勉強しておくように言われた。確かに、知って見るのと、知らずに見るのでは、大きな違いがある。しかし、反抗期の学生の耳には届かず、学校から配られた資料をかろうじて読んだだけだった。法隆寺の記憶はほとんどなく、鮮明に憶えているのは金閣寺のほうだ。
「あんなものは再建されたものだから文化的価値は無いんだ」
とか言いながら、間近に見た金閣寺に足が震えるほど感動してしまった。中学生なんて代物は本当にどうしようもないものだ。
法隆寺に感動したのは社会人になってからだ。このときは、修学旅行で行けなかったところを重点的に訪問した。
浄瑠璃寺、平等院、唐招提寺、明日香寺、石舞台...最後が法隆寺だった。風格、造形、大きさ、すべてが圧倒的で、他の寺が玩具のように感じられた。東京に戻ってから、梅原猛の「隠された十字架」を読み、ますます法隆寺にはまってしまった。次第に、自分の中で法隆寺は特別なものになっていった。
あの時以来の法隆寺である。何故か、とても小さく感じた。五重塔と金堂はもっと離れていたはずだったし、金堂はもっと大きかったはずだった。あの時感じた風格もまったく感じられなかった。中門が工事中だったせいだろうか。修学旅行シーズンで、境内が中学生で溢れかえっていたせいだろうか。長い空白期間に、勝手にイメージが膨らんでしまったのは間違いない。正直、来なければよかったと思った。そうすれば、いまでも特別な場所でいられたはずである。
中学生が五重塔の賽銭箱の前で、柏手を打ち、大きな声で「いいことが沢山おこりますように」と願掛けていた。神社じゃあるまいし、本当に、中学生なんてものは今も昔もどうしようもない。
高校の修学旅行では、自由コースの日というのがあった。いくつか用意されたモデルコースのうち、一つを抽選で選ぶようになっていた。最も人気がなかったのが「山野辺の道コース」で、天理市の石上神宮から桜井市の大神神社付近まで約15kmの古道を歩くというものだ。昔からクジ運が悪く、こういうものを何故か引き当ててしまう。
ブツブツ言いながら歩き始めた「山野辺の道」だったが、これが意外に良かったのである。ただの田舎道だが、人工物が少なく、万葉人の気分に浸れた。ところどころ視界が大きく開ける場所があり、みんなで大和三山を探したりもした。
社会人になって、もう一度「山野辺の道」を歩く機会があった。道は綺麗に整備され、案内札や注意書きが立てられ、柵が設置された場所もあった。安全上の配慮なのかもしれないが、これでは興ざめである。また、この頃には万葉集の知識もはげ落ち、大和三山の名前も分からなくなっていた。結局、万葉人にはなりきれず、ただのハイキングで終わってしまった。
法隆寺が思いのほか良くなかったのは、飛鳥人になりきれなかったせいかもしれない。聖徳太子の時代から大化の改新ぐらいまでをもう一度勉強していれば、もう少し感情移入できたかもしれない。
記:2018年6月