
2019年4月
2010年から始めた2月の温泉旅行も最近はネタ切れになってきた。雪深い秘湯、名湯は数多あるが、観光地に近いところとなると限られてくる。昨年は定番の北海道、東北を諦め、山陰の玉造温泉になった。雪はあったものの、真冬の温泉旅行の風情はなかった。
奥飛騨温泉郷は残された数少ない候補のひとつで、近隣には大観光地の飛騨高山がある。しかし、それ以外の観光地となると、白川郷、上高地、立山黒部アルペンルートということになるが、白川郷はすでに行っているし、冬の上高地は素人が立ち入るところではなく、立山黒部アルペンルートは立ち入ることさえできない。初日はいいが、2日目の予定がうまく組めないのである。そこで今回は旅行の日程を4月にずらし、開通直後の立山黒部アルペンルートを2日目の観光地にすることにした。そうと決まれば話は簡単で、特に議論することもなく、1年も前に計画だけはできてしまった。
ところが、1ヶ月前になって突然、幹事のT君から緊急連絡が入った。立山黒部アルペンルートの扇沢から立山までの通り抜け切符が取れないという。切符の予約は3月1日からできるのだが、1ヶ月前からと勘違いしていたらしい。この時期の立山黒部アルペンルートは大変な人気で、完全に出遅れてしまった。急遽、逆ルートを検討したら、こちらはかろうじて予約が取れた。そこで、旅行日程をすべて逆に変えて、なんとか事態を収拾できた。いや、できたと思ったと言ったほうがいい。
1週間前になって、再びT君から緊急連絡。今度は、旅館の到着が遅すぎて夕食にありつけないという。旅行日程を逆にしたことによる副作用だった。1週間前では万事休すだ。駄目元で調べたら、19時過ぎに到着しても夕食にありつけて、かつ、予約が取れる宿が1件だけ見つかった。それも、奇跡的に1部屋だけ空いていた。急遽宿を変更して、なんとか事なきを得た。1年も前に決めた計画なのに、想定外のドタバタ旅行になってしまった。
4月20日(土) 6:16
石巻の酒に酔う
移動は強行軍で、東京行きの東海道線始発に乗らないと間に合わない。自宅から茅ヶ崎駅まではバイクで10分足らずだが、この時間は駐車場が開いていないので、40分かけて歩いていくことになった。M君、T君、F君が横浜駅で同じ電車に乗ってきた。8ヶ月ぶりの再会だが、M君がひどくやつれていた。なんでも3月から石巻でワカメ漁のアルバイトを始めたのだが、想像を超えた3K職場だったらしい。
6時16分発富山行きの北陸新幹線は、石巻の酒とつまみで小宴会になった。酒が足りなくなり、車内販売のワンカップを追加で購入した。「加賀鳶」という酒で、3缶しかなかった。販売員の女性に「まだ、朝ですから」と言われた。「こいつら朝から何やってるんだ」と言われているような気がした。
4月20日(土) 8:30
富山駅は快晴
富山駅は快晴、春の日差しが眩しかった。ここで富山地方鉄道に乗り換え、立山に向かう。立山までは1時間の距離である。
お土産売り場で酒とつまみを買い込んだ。朝の8時半なのに、「1時間あればまだ飲める」と考えてしまう。本当に困ったものだ。電鉄富山駅の改札口は外国人で混雑していた。我々の乗る電車は9時15分発なので45分も待たなければならない。近くのロッテリアで暇つぶしをしてから、再び改札口に行ってみると、誰もいなかった。電車もガラ空きだった。立山黒部アルペンルートの通り抜け切符の予約状況からいえば、こんなはずではなかった。
4月20日(土) 9:15
酒の肴は田園風景
もっとも、小宴会を続けるには好都合だった。走り出すのを待たずに、酒盛りの続きが始まった。騒ぐわけではないが、朝の9時という時間を考えるとやはり変な連中だ。
市街地を抜けるといい感じの田園風景になった。富山地方鉄道立山線は立山連峰と並行して走っているので、左側の車窓からは雪を抱いた山脈がいつでも見える。砺波平野の散居村ほど明確ではないが、屋敷林をめぐらせた農家も散見された。冬の冷たい季節風や吹雪への対策は同じということなのだろう。
突然、田園風景が途切れ、山の中に入った。森の中を立山駅に向かって登っていく。ほどなく、ロッジ風の趣きある駅舎が見えてきた。ここだけは賑やかで、駅の周りの駐車場は観光バスやマイカーで溢れかえっていた。
4月20日(土) 10:20
長い待ち時間
立山駅は2階が立山ケーブルカー乗り場になっている。2階に上がってみると、かなり混雑していた。電車は空いていたから、バスやマイカー客が多いのだろう。ケーブルカーの乗車時間は11時なので、ここでも40分待ちになった。
待ち時間を利用して、軽く腹ごしらえをしておくことにした。駅の構内にはレストランアルペンという名前の食堂があった。100人ぐらいは入れそうな大きな食堂だが、メニューは蕎麦、うどん、カレーぐらいしかなかった。白海老かき揚げうどんと蕎麦を注文。味は悪くはなかった。
4月20日(土) 11:00
奇勝を見損なう
立山ケーブルカーは、立山駅と美女平間1.3km、標高差およそ500mを7分かけて一気にのぼる。車窓から柱状節理の岩肌を見ることができると車内放送があった。残念ながら、窓の外を見れる位置に乗ることができず、見えたのは人の頭だけだった。
このケーブルカーは大阪車輌が製造したものだ。かつてケーブルカーの製造メーカーは沢山あった。日立もその一社で、いまでも日立製のケーブルカーをよく見かける。製造メーカー数は年々減少し、とうとう大阪車輌1社だけになったらしい。ちなみに、立山トンネルだけになったトロリーバスもこの会社の製品である。残務整理のような会社だ。
4月20日(土) 11:15
絶景も夢の中
美女平から立山高原バスに乗車する。マイカー規制が行われているため、一般客は必ずこのバスを利用する。計画では11時40分発のバスに乗る予定だったが、1本前の11時15分発のバスに乗車できた。
バスは50分かけて、つづら折りの山道を1500m駆け登る。睡眠不足と酒盛りのせいで、動き出すとすぐに睡魔に襲われた。終点の室堂ターミナルの手前500mにわたり、高さ20mにも迫る巨大な雪の壁がある。これが「雪の大谷」である。このあたりに来ると車内が騒がしくなり、自然に目が覚めた。外を見ると巨大な雪の壁の前に大勢の観光客がいた。
4月20日(土) 12:15
「雪の大谷」を歩く
「雪の大谷」では、観光客とバスが一緒に写っている写真が多い。だから、バスを停めて周辺を散策するのだと勘違いしていた。実際には、室堂ターミナルで下車し、ここまで歩いて戻ってくるのである。室堂の気温は零度と聞いていたが、この日は快晴で暖かく、帽子も手袋も必要なかった。
それにしても、想像を越える人の数だ。真っ直ぐ歩けない。降雪が少ない台湾や韓国、タイ、マレーシア、シンガポールなどの観光客に大人気らしいが、聞こえてくるのは中国語ばかりだった。よく見ると、雪の壁に無数のイタズラ書きがされていた。指で雪を削った程度のものなので、それほど気にもならなかったが、それでも注意したほうがいいと思った。放置しておくと、いつかペンキを使う輩が出ないとは限らない。
30分あまり散策した後、室堂ターミナルに戻った。ここの2階にレストランがある。450席の大レストランなのに行列ができていた。黒部名物の「ダムカレー」はここにはなく、「とやまポークカツカレー」の食券を買った。しばらく待って席に案内された。
料理が出てくる前にトイレに行った。ここにも行列ができていた。大便用の便房は3つで、洋式は1つしかなかった。並んでいたのは外国人だったようで、1つしかない洋式が空くのを待っていた。それを横目に、こちらはさっさと和式で用を済ませた。
席に戻ると、冷えたポークカツが乗ったカレーが置いてあった。
4月20日(土) 13:45
乗車前のトラブル
室堂から黒部ダムまでは下りになる。最初に乗るのが立山トンネルトロリーバスだ。乗車時間は10分。もともとはディーゼルエンジンの普通のバスだったが、トンネル内の排気ガスが問題になり、電化されたらしい。関電トンネルが今年から電気バスに変更されたので、ここが国内唯一のトロリーバスになった。
乗車前に事件があった。M君が現金4万円を落としたというのである。彼は財布を持つ習慣がなく、いつもズポンのポケットを財布代わりにしている。財布よりは安全なのかと思ったが、落とすことに関しては事情は同じらしい。トロリーバスの受付に行ってみると、立山駅の食堂に落ちていたということで、その場で4万円を立て替えてくれた。財布なら取りに行かなくてはいけないが、現金だけなのでこういう対応が可能だったようだ。
4月20日(土) 14:00
文字通りの大観峰
立山ロープウェイの乗り場は「大観峰」という。その名前の通り、目の前に赤沢岳の絶景が広がっている。このロープウェイはワンスパンロープウェイといい、支柱がない。出発から到着までの距離は約1.7kmで、ワンスパンロープウェイの運行距離としては日本一だという。
乗車時間は7分間だが、ここでも窓の近くに行けなかった。見上げると、山の急斜面にはスキーの跡が幾筋も残っていた。このあたりは山岳スキーのルートではないはずだが、強者はいるらしい。また、右側の車窓に黒部湖が見えていたのだが、まったく気づかなかった。凍りついていて、湖に見えなかったからだ。
4月20日(土) 14:20
貴重な客車
黒部平で黒部ケーブルカーに乗り換える。全線地下というケーブルカーはここだけらしい。何もない真っ直ぐなトンネルの中を5分間乗車し、黒部ダムに到着した。
客車の中に「東京汽車會社 昭和44年」と書かれたプレートを見つけた。東京汽車會社の正式名称は汽車製造株式会社で、明治26年(1893年)に設立された日本最初の民間機関車メーカーである。鉄道車両の国産化はこの会社から始まった。昭和47年(1972年)に川崎重工業に吸収合併されている。黒部ケーブルカーが開業した昭和44年はまだ会社が存続しており、当時の客車が今でも使われている。
4月20日(土) 14:30
敗戦国日本の底力
黒部ダムのえん堤の高さは186mあり、日本一を誇るだけあって、やはり高い。えん堤の長さは492mで、端から端まで歩いてもそれほど時間はかからない。
NHKの「ブラタモリ」で黒部ダムの特異な構造を紹介していた。よくあるダムは重力式ダムといい、えん堤自身が直接水圧を受け止める形式で、直線的な形になっている。それに対してアーチ式ダムは、えん堤を丸く作ることで水圧を両岸に分散させる形式である。重力式に比べてコンクリートの量が少なくて済む利点がある。しかし、黒部ダムの場合は、両岸の強度が不足していたらしい。そこで、アーチの両端を直角に折り、ここだけを重力式にしたという。敗戦まもない昭和20年代にこれだけの設計ができたことに驚いてしまった。
えん堤の中ぐらいまで来ると、黒部ダムの施設が目に入ってきた。正面に「黒部ダムレストハウス」が見えた。黒部ダムカレーはここの名物だった。その隣にあるのが、「黒部の太陽」で有名になった「関電トンネル」の入口である。さらに、その隣には171名の殉職者の名前を刻んだ慰霊碑があるはずだが、確認できなかった。どうやら、雪囲いされているところがそれらしい。
放水が見学できる新展望広場がある。「ブラタモリ」はここにも来ていたが、高いところが苦手な人間にはちょっと厳しい場所だ。それ以上に怖いのは新展望広場につながる外階段で、見るだけで足がすくむ。ここだけは行きたくないと思っていたが、幸い、放水のないこの時期は通行止めになっていた。
4月20日(土) 15:00
日本の土木史に燦然と輝く偉業
黒部ダムからバス乗り場に向かう道は長いトンネルで、しかもかなり昇っている。最後の階段のところで足が攣りそうになった。そんなに歩いたつもりもなかったが、考えてみれば、朝から歩きづめだった。足を引きずりながらバスに乗り込んだが、座れる席はなく、立ったまま56年前の偉業に思いを馳せた。
関電トンネルの建設当時の名称は大町トンネル。黒部渓谷へ膨大なダム建設資材を運び込むために計画された5.4kmのトンネルである。扇沢(大町市)から2.6kmの区間を担当したのが熊谷組だった。1.7kmほど掘り進んだ地点で破砕帯に遭遇。切羽からは人が吹き飛ばされるほどの出水と大量の土砂が噴出し、行く手を阻んだ。距離わずか80メートルの破砕帯を突破するのに7ヶ月の苦闘を要した。「黒四ダム」建設最大のハイライトだ。石原裕次郎の役どころはこの工事を指揮した現場班長だった。破砕帯のあった場所は青くライトアップされていた。
立山側(黒部ダム側)からの迎掘りを担当したのは間組。こちらは現地まで資材を運搬する道路がないのだから熊谷組よりも条件が悪かった。資材は、弥陀ヶ原高(室堂の手前)までトラックで運搬し、そこからは4000人のマンパワーで、立山の峠を超え、急斜面を下って、ダムサイトまで運び込んだ。それで先ず基地を作り、トンネル採掘用の重機はブルドーザーに乗せ、春先の残雪を利用して作業現場までおろした。道なきところも雪があれば運搬できると考えたのである。双方から掘り進んだトンネルは真ん中で合流、その誤差わずか数センチだったという。
感傷に浸る間もなく、あっという間に通り過ぎ、15時21分に終点の扇沢に到着した。
4月20日(土) 16:00
高速バスは貸し切り状態
平湯温泉行きの高速バスの発車まで45分待ちである。高速バスに乗り遅れると後がないとはいえ、慎重すぎたかもしれない。もう少し黒部ダムにいても良かった。暇つぶしに、黒部ダム行きの関電バス乗り場に行った。バスの発車時刻が近くなると、名物販売員の中里さんが現れるからだ。しばらく待っても現れないので、バスの時刻表を確認したら、どうやら待ち時間内には現れそうになかった。
平湯温泉行きの高速バスの乗客は我々4人だけ。我々がいなければ運休になったはずだから、運転手さんにとても申し訳ない気がした。
バスは大町市内を大糸線と並走し、何故か、安曇野ICから長野自動車道に乗った。これは諏訪湖に向かう道で方向が違う。変だなと思ったら、トイレ休憩が目的で、梓川SAに立ち寄っただけで次の松本ICで長野自動車道を降りた。松本からは梓川沿いを上高地に向かい、上高地の先で安房峠道路に入った。1998年の長野オリンピックのために造られたバイパス道路で、5時間以上かかっていた安房峠越えをわずか5分に短縮させた道である。安房峠道路の出口のすぐ先に平湯温泉のバスターミナルがあった。あたりは薄暗く、時間は6時半を過ぎていた。
1週間前に予約が取れた奇跡の宿は深山桜庵という。バスターミナルから徒歩7分ぐらいとのことだったが、歩けそうな気がせず、迎えに来てもらった。
4月20日(土) 20:00
ちょっとだけ高級な深山桜庵
深山桜庵は和風モダンといった風情の、1泊25,000円の高級旅館である。その割にはという印象だった。
中に入ると談話スペースに案内された。そこで宿帳を記帳し、若い従業員から館内の説明を受けた。とても小さな声で、半分くらいしか聞き取れなかった。斜面に造営されているので部屋への移動は少し分かりにくい。エレベータで下の階に降り、少し歩いてから、階段で上に昇る。別の従業員が部屋の近くまで案内してくれたが、部屋の中に入るわけではなかった。部屋は10畳の和室と洋間のリビング、それに風呂が付いていた。布団はすでに敷かれていた。基本はセルフで、ルームサービスはない。このあたりが、高級旅館の割にはという印象になった。
夕食は18時と20時の入れ替え制で、到着が遅かったので20時からになった。その前に風呂に行った。少しぬるめだが、ほんのり硫黄臭がして、温泉らしかった。
食事は飛騨牛の炭火焼きをメインにした会席料理。小鍋のすき焼きは温泉卵で食べる趣向で、卵が絡まず美味しくなかった。鯛飯も水っぽかった。それ以外は美味しかったように思う。日本酒は選ぶのに迷うくらい銘柄が多かったが、値段はどれも1合千円以上で、注文するのに少し躊躇した。銘柄を変えて4合注文したが、いずれの酒も悪くはなかった。ただ、朝から酒浸りだったせいもあって、あまり進まなかった。
隣の座席は外国人だったようで、従業員が英語で対応していた。こんな山奥でも外国人に人気のある観光地に近いため、こういう対応が必要なのだろう。すき焼きを温泉卵で食べさせるのも、生卵が苦手な外国人客への配慮かもしれない。
4月21日(日) 10:00
日本三大朝市
翌朝8時、平湯温泉バスターミナルにはロシア人の団体がいて、高山行きの同じバスに乗り込んできた。ここから高山濃飛バスセンターまでは約1時間である。山道を延々と走り、ようやく町並みが見えて来たと思ったら、すぐ市街地となり、終点のバスセンターに到着した。高山の中心街は想像していたよりも随分小さかった。
高山駅から国分寺通りを歩いて宮川朝市に向かった。雪を防ぐためなのか、アーケードが設けられていてとても雰囲気がいい。アーケードを抜けた先に、朝市のテントが見えてきた。日本三大朝市のひとつで、高山市を代表する観光名所である。海産物はなく、野菜、乾物、雑貨が中心である。ここにも外国人が多く集まり、一体ここで何を買うつもりなのか、とても不思議な気がした。
外国人にとり囲まれていたのが「コマコーヒー」、クッキーでできたコーヒーカップに自家焙煎のエスプレッソ、人が多くて近寄れず。「飛騨牛の握り」、まだ時間が早いとパス、後で後悔。いろいろな種類の切り餅、その中から「昆布餅350円」を購入、お土産に。大袈裟な名前の牛乳に遭遇、「まぼろしの朝市牛乳 白い命 180円」、味が薄くて今ひとつ。一際賑わっていたのが「高山プリン350円」、湯煎したホットプリンだが味は普通。
それほど特別なものはなかったが、意外に楽しかった。
4月21日(日) 10:30
奇妙な八幡宮
宮川朝市を抜けて、桜山八幡宮に向かった。ここの参道も雰囲気がいい。
八幡宮というのは武士が戦勝祈願する場所で、祀られているのは八幡神(主に応神天皇)である。八幡宮の起源は8世紀に創建された宇佐八幡宮で、全国の八幡宮はここから神様を勧請(分霊)して創建された。つまり、八幡宮はネズミ講のような組織で、ルーツを辿ると宇佐八幡宮にたどりつくのである。例えば、鎌倉の鶴岡八幡宮の勧請元は茅ヶ崎の鶴嶺八幡宮であり、鶴嶺八幡宮の勧請元は京都の岩清水八幡宮であり、石清水八幡宮の勧請元が宇佐八幡宮なのである。
驚いたことに、桜山八幡宮の起源は4世紀だという。仁徳天皇の御代(377年頃)に、両面宿儺という凶族を征伐するために派遣された難波根子武振熊命が応神天皇を祀って戦勝祈願したのが始まりとされている。たまたま八幡信仰と同じことが行なわれていたため、明治になって八幡宮に組み入れられたらしい。
二の鳥居をくぐった先に、高山祭屋台会館がある。高山祭は国指定重要無形民俗文化財で、日枝神社例祭「春の山王祭」と櫻山八幡宮例祭「秋の八幡祭」がある。16世紀に始まったとされ、当日は重要有形民俗文化財である23台の屋台が市内を練り歩く。その屋台の一部が高山祭屋台会館に展示されている。
高山祭屋台会館の入場料は900円。最近値上げしたようだ。受付でスマホサイズの端末機が借りられる。屋台番号を入力すると説明が音声で流れるようになっている。以前は巫女姿のガイドがいたらしいが、これに変えたらしい。なんとも味気ない。屋台は江戸時代に造られたもので、実に見事なものだ。しかし、ガラス越しに見るだけで近寄ることはできない。カラクリが動くわけでもない。これで900円は、どう考えても高すぎる。
4月21日(日) 11:30
古い町並み
高山市内の観光時間は3時間を予定していた。徒歩なので3時間ぐらいが妥当だろうと判断したのだが、結果は、時間がまったく足りなかった。行列を想定していなかったからである。高山の年間観光客数は450万人を超えており、実に人口の50倍超。街の大きさを考えれば、行列ができないわけがなかった。
桜山八幡宮から古い町並みに向かった。途中にある、宮川の支流・江名子川沿いの風情がとてもいい。このあたりは古い町並みのハズレで人が少なく、桜も今が満開。しばし休憩。
上三之町・上二之町・上一之町付近は「さんまち通り」と呼ばれ、中でも、古い町並みが一番残されているのが上三之町である。上三之町の入口付近に来て、遠目にも混雑しているのが分かった。
まず、「老田酒造店」で地元の酒を買い、次に「飛騨小町」で飛騨牛コロッケとメンチを食べた。それから、「飛騨こって牛」で飛騨牛三種盛りを食べる予定が、想定外の行列である。並ぶだけの時間がない、諦めるしかなかった。食指が動いた店はいずれも行列ができており、結局、ぶらぶら歩いただけで終わってしまった。
残された時間は、高山陣屋に行くか、高山ラーメンを食べるか、この二者択一になった。さほど迷うことなく、高山ラーメンを選択、「半兵衛」という店に入った。美味かったが普通すぎて拍子抜け、といったところか。
12時33分発の「特急ワイドビューひだ」で高山をあとにした。やや消化不良で後ろ髪を引かれる思いがしたが、石巻に戻らなければならないM君の事情を考えれば、これ以上の長居は無理だったかもしれない。
江戸時代以前のたたずまいが残り、景観などが京都に似ている地域を称して「小京都」と呼んでいる。全国の「小京都」を束ねるために、1985年に「全国京都会議」という団体が設立された。加盟するには、①京都に似た自然景観、たたずまいがある②京都と歴史的なつながりがある③伝統的な産業・芸能がある、の3条件のうち、どれか1つに合致していればよく、年1回催される総会で承認されれば加盟が認められる。ピーク時の1999年度には56市町が加盟していたが、2019年4月時点では44市町に減少しており、京都離れが顕著になってきた。
「加賀の小京都」と称された金沢市は「金沢は城下町で、公家文化の京都とは違う」との理由で2008年に退会。松本市は「アルプスの城下町とは呼ばれても小京都と呼ぶのはそぐわない」と2004年に退会。「陸中の小京都」と称された盛岡市は「役割は果たした」と2010年に退会した。そのほかにも、滋賀県大津市、北海道松前市、山形県酒田市などが「小京都」から独立している。
「飛騨の小京都」高山も退会した。京都ブランドに頼らなくても、高山独自の観光資源を活かしたブランディングで、450万人を動員することに成功した。おそらく、退会した街の中で最も成功しているのは高山かもしれない。アクセスの悪い山の中の小さな街が、古い町並みと朝市ぐらいしかない田舎街が、これだけの成功を収めているのはとても痛快に感じる。
記:2019年5月