
2020年2月
佐渡冬紀行は、東京からの上越新幹線往復運賃、佐渡汽船往復乗船運賃、佐渡市内での2泊4食の宿泊料金がセットになった格安旅行パックである。佐渡市が15,000円を助成しているため、佐渡島2泊3日の旅が29,800円という破格の料金である。フェリーを高速のジェットフォイルに変更しても34,000円という安さだ。期間は2019/12/1から2020/2/29までの3か月で、1400名限定である。
前年の10月31日に発売になり、その日のうちにJR大船駅のびゅープラザで予約をした。混み合っていることを予想していたが、そんなこともなく、普通に予約できた。日程は、2月22日から24日までの3連休で、2月6日にチケットが自宅に送られてきた。同封の書類にはキャンセルに関する記述があった。要約すると、佐渡島に渡ったら旅行成立で、そこから先はすべてお客様負担になると書かれていた。つまり、佐渡島に渡った後に、フェリーや新幹線のトラブルで東京に帰るのが遅れたとしても、発生する追加料金はすべて自己負担になるという。そんなことは万に一つだと高をくくっていたら、低気圧の発生で2月17日と18日のフェリーが全便欠航になった。幸い、その後は欠航にならず、なんとか佐渡に行けることになったが、天気は相変わらず不安定のままだった。
2月22日(土) 11:30
いざ佐渡へ
上越新幹線は5分遅れで新潟駅に着いた。異常な暖冬で、国境の長いトンネルを抜けても雪がなく、越後湯沢駅の周辺でわずかに確認できたぐらいだった。また、新型コロナウィルスの感染者拡大で、人が集まる場所ではマスクを着用するのが常識になっていた。事前にその旨を通知していたのに、M君とT君はマスクを持ってくることすらしなかった。なんたる無防備!ジョン・ウェインの西部劇のように、自分にだけは弾が当たらないと思っているのだろうか。
びゅープラザから送られてきた書類に、出航時刻の30分前までに乗船手続きを完了させるようにと書かれていた。急いでタクシーに乗ったが、新幹線の到着が5分遅れていたこともあり、30分前には手続きできそうになかった。大丈夫だとは思ってはいたが、少しハラハラした。
新潟港から佐渡島の両津港までは、フェリーならば2時間半かかるが、高速のジェットフォイルは1時間5分で到着する。モーターボートのような速さを想像していたが、時速70キロでのんびり運航していた。これでも海の上では高速になるらしい。
ジェットフォイルは米ボーイング社が開発した高速艇で、日本では川崎重工がライセンス生産している。佐渡汽船は、ボーイング社製の「ぎんが」と川崎重工製の「つばさ」、「すいせい」の3隻を所有している。乗船したのは往きは「ぎんが」、帰りは「つばさ」だった。
2月22日(土) 13:00
佐渡の味
予定通り、両津港に到着した。小雨が降っており、夕方のように薄暗かった。
まず、アイランドレンタカーに向かった。事前に予約しておいたので、店の前にはトヨタのウィッシュが準備されていた。ここ1年くらいは軽自動車しか乗っていなかったので、随分大きく感じた。5人旅にはこのサイズのミニバンが使いやすくていい。かつては多くの車種が製造されていたが、すべて生産中止になった。今となっては貴重な車だ。
佐渡と言えば寿司。中でも「弁慶」と「長三郎鮨」の人気が高い。初日の昼食は長三郎鮨、2日目は弁慶に決めていた。両津港から県道65号両津真野赤泊線(南線)を南下、10分ぐらい走ったところに長三郎鮨があった。想像していたよりも小さな店だった。
10台ぐらいが停められる狭い駐車場の一番奥が空いていた。気をつけながら駐車しようとしたとき、店から先客が出てきた。しかも、一番前の最も停めやすい場所の客だった。入れ替わりで車を停め、それから店に入った。店内は長いカウンターがあり、その奥に2階に上がる階段があった。
寿司とラーメンのセットが看板メニューという不思議な店で、観光客慣れしているかんじだった。佐渡のご当地グルメにブリカツ丼というのがあり、この店もブリカツ丼を提供している。どちらにしようか迷ったが、寿司にしないと後悔する気がして、寿司とラーメンのセットを注文した。あまり時間をかけずに出てきた寿司もラーメンも見たままの味だった。不味いわけではないが、普通に美味いだけだった。これならブリカツ丼にすべきだったと悔やまれてならなかった。
2月22日(土) 14:30
たらい船
県道65号線から国道350号(本線)に入り、小木港にある「力屋観光汽船」に向かった。小木は江戸時代の佐渡の中心地で、佐渡金山から産出した金・銀の輸送や西廻り航路(北前船)の廻船港として賑わった場所である。
長三郎鮨から約50分で到着、雨はやんでいたが誰もいなかった。たらい船の受付で乗れるのか確認したら、しばらく待たされた後、着物姿の女性が二人出てきた。5人は乗れないらしく、3人と2人に分かれて乗ることになった。
乗り込む時は不安定で少し揺れるが、乗ってしまえばそれなりに安定していた。湾の中を10分程度遊覧するだけだが、意外に面白かった。途中で、漕ぎ手を変更してもらった。櫂を逆手にもち、たらいに触れないように左右に動かすだけでいいと教わった。その通りにしたつもりなのに、まったく前に進まなかった。思ったよりも難しい。女性船頭の漕ぐ姿を観察していたら、膝を巧みに使っていた。スポーツの基本は膝の動きと体重移動、たらい船も例外ではなかったようだ。
2月22日(土) 15:00
千石船
宿根木は小木海岸の入り江の集落で、船大工や鍛冶屋、桶屋など廻船業に携わる多くの人々が居住し、千石船産業の基地として繁栄した場所である。迷路のような露路に今も100棟を超える板壁の民家が密集している。船大工の技術が結集した宿根木の町並は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
宿根木に向かう途中で雨が強くなった。予定にはなかったが、\sp\集落の手前にある「佐渡国小木民俗博物館」に立ち寄ることにした。ここは、大正9年築の旧宿根木小学校で、主に民俗資料を展示している。隣接する展示館では実物大の千石船が公開されていた。\se\安政5年(1858年)に宿根木で建造された「幸栄丸」を当時の板図をもとに復元したものらしい。
民族資料館は、昔の生活用品を雑然と並べてあるようなかんじだった。それなりに面白かったが、興味深かったのは木造校舎のほうである。強風にあおられ、薄い窓ガラスが大きな音を立てていた。この厳しい環境を考えると、大正9年築の建物はとても保存状態がいい。大切に守られてきたのだろう。3年生の教室には15人の机が置かれており、後ろに展示されている運動会の写真には子供たちの笑顔が溢れていた。何か大切なものが失われてしまったような気がして、切ない気持ちになった。
2月22日(土) 15:30
宿根木
宿根木に着いた時は暴風雨になっていた。他に観光客はおらず、入り口の案内所は冬期閉鎖中で、入り口の店も休業していた。この時期、内部を公開している家が1件だけあるが、ここも閉鎖されていた。こうなると、狭い露路をただ歩くだけになってしまう。今も残る伝統的建造物は106棟で、そのうち人が住んでいるのは68棟という小さな集落である。歩くには、10分もあれば十分だった。
露路に入ると風はほとんど感じなくなった。船板をはめ込んだ民家や石畳の露路は江戸時代の面影をそのまま残しているらしいが、そこまで古い感じもしなかった。
公開民家のひとつに「三角家」というのがある。狭い露路の形状に合わせて三角形に建てられた家で、宿根木を象徴する建物である。平成18年まで実際に使われていたらしい。想像していたよりもこじんまりした建物だった。
JR東日本のCM「大人の休日俱楽部 宿根木散策篇」では、吉永小百合が宿根木の集落を戸惑いながら歩く様子を描いている。
2月22日(土) 17:00
湖畔の宿
宿泊は加茂湖の畔に立つ「湖畔の宿・吉田屋」。佐渡冬紀行で宿泊できる旅館の中では最も両津港に近い場所にある。部屋は10畳の和室に広縁がつき、目の間には加茂湖と金北山の山並みが見えた。天気が良ければ絶景だったのかもしれない。
屋上の露天風呂は、脱衣場も外にあり、暴風雨の中での脱衣は大変だった。急いで風呂に飛び込んだものの、お湯はそれほど熱くなかった。風はいよいよ強くなり、寒すぎて風呂から出るに出られない状況になってしまった。
食事は初日が「のどぐろ御膳」、2日目が「島黒豚御膳」を選択した。いずれも佐渡の食材をメインに使っている。お品書きもなく、妙な演出もなく、大広間での普通の食事だったが、それなりに美味しかった。
初日の夜、1階のロビーで民謡ショーが行われた。「佐渡おけさ」を歌って聞かせてくれるのかと思ったら、そうではなかった。テープから流れる民謡に合わせて一人の老婆が踊りを舞うという理解不能なショーだった。
2月23日(日) 9:00
佐渡金山
2日目の朝、佐渡金山跡に向かった。国道350号(本線)の見慣れた田舎道から県道305号に入ると雰囲気が一変した。銀行やディーラー、コンビニ、ドラッグストア、オートバックス、洋服の青山、ワークマンなどおなじみの店が並ぶ。この辺りが佐渡の中心地らしい。真野湾の海岸線を少し走った後、いよいよ金山のある相川に入った。
「相川金銀山」は16世紀末に開発が始まり、17世紀前半に最盛期を迎えた。その金山跡には、江戸時代の手掘り坑道跡の「宗太夫坑」と明治以降の近代設備で採掘された「道遊坑」の2つの見学コースがある。時間的に2つは見れないので、「宗太夫坑」を選択した。
坑道内には採掘の様子が実物大の人形で再現されている。海抜下まで坑道を伸ばしたために湧き水に悩まされた様子や作業を監視する様子がよく表現できている。また採掘には大量の無宿人や罪人が投入されており、そんな胡散臭い雰囲気もよく出ている。説明書きも分かりやすくて、なかなか見応えがあった。
難を言えば、全体像が掴みにくいことだ。渡されたパンフレットは肝心なことが何も書いていない。坑道を抜けた先にある展示資料館に、採掘の全体象を描いたジオラマで置かれていた。「これを最初にみせてくれ」と思った。
第2展示室と書かれた場所に、金の延べ棒を取り出すチャレンジがあった。アクリル箱に入った、12.5キロ、6千万円の金塊を30秒以内に素手で完全に取り出せたら記念品がもらえる。穴の大きさから判断して、指先に乗せるしか方法がない。手を入れて掴んでみたが、指先に乗せるどころか、持ち上げることもできなかった。早々と諦めて、6千万円を触るだけでやめておいた。
2月23日(日) 10:00
佐渡奉行所
佐渡金山跡の次は北沢浮遊選鉱場跡で、その次が佐渡奉行所を予定していた。それは勘違いで、佐渡奉行所が先に現れた。佐渡奉行所は相川の街並みを見下ろす丘の上にあり、その丘の下に北沢浮遊選鉱場跡があった。シベリアおろしを思わせる突風が吹き荒れ、佐渡奉行所の大御門も玄関も閉鎖され、身をかがめながら小口から中に入った。
鉱山が栄えた時代、佐渡金山と佐渡奉行所を結ぶ京町通りがメインストリートだった。最盛期にはこの狭い土地に5万人が居住し、そのせいか、このあたりのまち並みは隣同士がくっつくぐらいに密集している。それを確認するために時鐘楼のある下京町ぐらいまでは散策してみようと思っていたが、突風でそれどころではなくなった。
佐渡奉行所の建物は2000年に復元されたものである。忠実に再現されたようだが、これといった特長もなく、建物の中に展示らしきものもほとんどない。要するに、見どころがないのである。
佐渡金山跡の展示資料館には、鉱石を小判にするまでの工程がジオラマが展示されていた。勝場(せりば)という。佐渡奉行所の中に、この勝場が実物大で再現されていた。ここだけは面白かった。
2月23日(日) 10:30
近代産業遺産
明治になると、佐渡金山は西洋人技術者により近代化・機械化が進められた。明治29年に三菱合資会社に払い下げられ、平成元年まで採掘が行われていた。当時の写真を見ると、北沢地区には鉱山の近代化に貢献した施設が密集していたことが分かる。「北沢浮遊選鉱場」もそのひとつで、昭和15年の建設当時は東洋一の選鉱場だった。資源の枯渇から昭和27年に廃止され、今はコンクリートの基礎だけが残っている。崩れかかった巨大なコンクリートの建造物に緑の蔦がからまる景観から、佐渡のラピュタと呼ばれている。
崩落する危険性があるため、建物の中には入れないが、前の広場には自由に入ることができた。今年は雪がないので、ラピュタのような景観が見れることを期待していたが、冬では草も枯れていて、薄暗い廃墟にしか見えなかった。
前の広場にゴルフ練習場が建設された時期があったらしい。建物の前方にある凸型のコンクリートはその時に張られたフェンスの基礎の名残だそうだが、不思議に同化して違和感がなかった。
ところで、佐渡市は「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」を世界遺産に登録しようとしている。残念ながら、国内審査で4年連続落選している。2020年は有力な候補が他にいないことからチャンスだと思っているらしい。しかし、遺産群のひとつである北沢浮遊選鉱場跡にしても、建物を保護しているわけではないし、後世に残していけるものなのか、はなはだ疑問だ。同じようなものに大間港の遺産群がある。こちらはもっと状況が悪い。
大間港は、佐渡金山の近代化に伴い、佐渡鉱山の鉱石や資材を搬出入するために作られた人口の港で、明治25年に完成した。その後、大正から昭和にかけて、クレーン用の台座やローダー橋、トラス橋などが設置された。クレーンやトロッコを使って、鉱石を橋の上から船に落下させて積み出していたらしい。
トラス橋は朽ちて崩壊寸前だし、海の上に貼り出すように架けられたローダー橋の橋脚は佐渡の荒波にさらされ続けている。このままでいいのか、心配になった。
2月23日(日) 11:00
佐渡の荒海
山の天気は変わりやすいというが、島の天気はそれ以上かもしれない。相川の町の中は猛烈な防雨風だったのに、そこを抜けると雨が止んで陽もさしていた。しばらく走って尖閣湾揚島遊園に着くと、また激しい強風にさらされた。海は大荒れで、この日の佐渡汽船は全便欠航になった。島に置き去りにされるリスクが現実のものになった。
尖閣湾は約3㎞の海岸に広がる5つの小湾の総称で、30m級の尖塔状の断崖が連なる佐渡屈指の絶景である。このうちのひとつ揚島峡湾にある観光施設が「尖閣湾揚島遊園」だが、改装中で売店も食堂も休業していた。
揚島には橋が架けられ、展望台が造られている。この橋は遊仙橋といい、通称「まちこ橋」と呼ばれている。1953年に公開された松竹映画「君の名は」のロケで使われて有名になった。当時はゆらゆら揺れる吊り橋だった。
橋が揺れることはなかったが、強風で思うように歩けない。眼下には荒れ狂う海があり、足がすくんだ。絶景もこうなると恐怖でしかない。園内には水族館と民具展示館があった。なにもかもがデジタル化された今の時代は息苦しくて、古い時代の物を見ると何故かほっとする。
2月23日(日) 12:30
再び、佐渡の味
昼食をとるため、県道305号の中心街に戻った。佐渡の人気回転すし「弁慶」はスーパーの敷地の一角にあり、それほど大きくな店ではなかった。店内はほぼ満席で、少し待たされた後、カウンター席に案内された。寿司は、淡白なものからゆでたもの、味の強いもの、巻き寿司の順番で食べるのが良いとされている。イカ、エビから初めて、しめ鯖、ブリトロ、のどぐろ、中トロ、ヒラメの縁側、など9皿。食べログは軒並み高評価だが、何を食べても普通だった。ヒラメの縁側は美味かったが、ブリトロやしめ鯖は硬くて不味かった。考えてみれば、回転すしは普段使いの手頃な店なのであって、それを忘れて過度に期待しすぎていたのかもしれない。
2月23日(日) 13:30
日蓮ゆかりの寺
佐渡の三大流刑者とは、順徳上皇、日蓮、世阿弥のことだが、世阿弥は少し時代が違う。順徳上皇は1221年に流され、22年後にこの地で崩御した。日蓮は1271年に流され、3年後に赦免になった。佐渡で、順徳上皇と日蓮の二人に関わった人物がいる。阿仏房日得という。もともとは順徳上皇の従者で浄土宗の信者だったが、日蓮宗に帰依し、妻の千日尼と共に日蓮のお世話をした。阿仏房の死後、息子が旧宅を寺に改めたのが妙宣寺である。境内の祖師堂には、阿仏房と千日尼の木造が安置されている。
門前に「妙宣寺ドライブイン」と書かれた古い建物があった。閉まっていたが、宅急便の旗が立っていたから営業はしているのだろう。阿仏房日得は日蓮宗の聖人だから、一定の参拝客がいるのかもしれない。茅葺の仁王門をくぐった先に、新潟県で唯一の五重塔があった。国の重要文化財である。その先の山門には、「阿仏房」と書かれた扁額がかけられていた。山門の先が寺の境内になる。少し荒れている印象だが、季節のせいかもしれない。建物の中は綺麗に手入れされていた。
1862年(文久2年)築の庫裡で御朱印をもらった。住職と思われるが、随分愛想の悪い人だった。
2月23日(日) 14:30
佐渡歴史伝説館
「佐渡歴史伝説館」では、佐渡の三大流刑者をロボットで再現している。入口の黒い分厚い扉が開いたら、扇子で顔を隠した女性が座っていた。この女性は順徳天皇の第一皇女・慶子女王。明かりが点いたら動いてしゃべりだした。動きはわずかで、顔の表情と手が少し動く程度。雰囲気は昭和の蝋人形と同じだ。話終えると明かりが消え、次へ移動する。
皇女が順徳天皇の崩御を悲しんでいる様子、雷光によって日蓮聖人が処刑を免れる様子、と続く。日蓮は口が薄気味悪く動くだけで、子供が見たら泣き出すかもしれない。
世阿弥は舞を演じているが、演目の途中で背を向け、そして振り返るとお面をつけていた。そのお面がどこから出てきたのか、一瞬のことで分からなかった。ここでは、これが一番面白かったかもしれない。
2階は人間国宝・佐々木象堂記念館になっている。作品が展示されているが、興味がなく、ほとんど素通り。お土産売り場で、人気商品だという「太鼓判せんべい」を買って、外に出た。天皇陛下が皇太子時代に夫婦でここを訪問されている。あの人形劇を最後までご覧になられたのだろうか。
2月23日(日) 15:30
トキの森
佐渡の旅の最後は「トキの森公園」だった。園内には、「トキ資料展示館」と「トキふれあいプラザ」がある。「トキふれあいプラザ」に向かって歩いているとき、上空を舞うトキを目撃した。「トキ色」と呼ばれる赤みを帯びた羽も確認できた。特別天然記念物が普通に飛んでいることに驚いてしまった。
\sp\トキの学名はニッポニア・ニッポンという。明治以降の乱獲と環境変化で数が激減し、能登で捕獲された「キン」の死によって、日本産のトキは絶滅してしまった。1994年に、中国からつがいのトキが贈呈され、そこから個体を増やし、今では約500羽が佐渡で生息しているのだという。\se\
「トキふれあいプラザ」に隣接するゲージの中につがいのトキがいた。二階観察窓から木の上に泊まっている様子が見えた。地面に降り立ったので一階に移動、ここの観察窓からは目の前を平然と歩いていくトキが見えた。トキからこちらは見えないようになっているらしい。頭から背中にかけて羽が灰色に変色しているのは繁殖期の特長だという。
宿に帰る途中で雨が強くなった。「帰れないかもしれない」、忘れかけていた不安が再燃した。
2月24日(月) 10:00
新潟に無事帰還
朝早く起きるとスマホで佐渡汽船の運行状況を確認した。時刻表通りの運航予定になっていたのでホッとした。とはいえ、天気が突然荒れる可能性もあるので、船が出航するまでは気が気ではなかった。
新潟港には10時に到着した。新潟駅行きのバスを「新潟メディア日報前」で途中下車し、「万代橋」が見える堤防まで歩いた。記念撮影をしようとしたその時、突然の嵐になった。慌てて屋根のある所に逃げ込んだが、ずぶ濡れになった。10分間ぐらいの出来事で、そのあとは普通の雨模様に戻った。
このまま東京に帰るのももったいないので、村上を散策する予定を組んでいた。村上行きの電車の時間までは少し間があるので、新潟名物「万代バスセンターのカレー」を食べに行った。これは「万代バスセンター」の中にある「万代そば」が出している真っ黄色なカレーである。量が多いと聞いていたので、380円のミニカレーを注文した。見た目は昭和の雰囲気だが、味はスパイスが効いた今風だった。B級グルメだが、本当に美味かった。
2月24日(月) 11:45
酒と鮭の町・村上
新潟駅10時57分発の「特急いなほ・酒田行」に乗車した。雨は本降りになり、車窓を流れるようになった。村上までの停車駅は5つで、その中に日立ゆかりの中条駅がある。ここにはかつて日立中条工場があった。今は、日立産機システム中条事業所になっている。中条工場の前身は日立亀戸工場で、昭和49年にここに移転した。亀戸工場には中学の同級生が就職しており、今は音信不通で消息不明だが、もし辞めずにいたのなら、このあたりに住んでいるのかもしれない。
村上駅に着いた時、雨はやんでいた。小さな路線バスに乗って、観光スポットのひとつ「イヨボヤ会館」に向かった。
村上の観光スポットは駅から遠く、歩くと20分ぐらいかかる。夏はレンタサイクルが用意されているが、冬はバスに乗るしかない。そのバスの本数が少ないうえに、観光に便利な「まちなか循環バス」は日曜・祝日運休なのである。やる気がないとしか思えない。
イヨボヤとは村上の方言で鮭のことである。三面川の鮭は村上の特産品で、江戸時代は藩の財政を支えた貴重な資源だった。それが不漁になると、村上藩士の青砥武平治が乱獲を諫め、資源保護を進言。そして、世界初の鮭の自然ふ化増殖に成功したという話である。ここは鮭の博物館で、秋には三面川を遡上する鮭の群れがガラス越しに見えるらしい。今の時期は、青砥武平治の物語ぐらいしか見どころがなかった。
イヨボヤ会館からは歩きになった。本堂が白壁土蔵造りという「浄念寺」に立ち寄った後、黒塀通りという路地を抜けて、小町通りで出た。ここに、村上で最も有名な店「きっかわ」がある。その「きっかわ」が経営する飲食店「井筒屋」で昼食にした。建物は芭蕉も泊まったという江戸時代の旅籠で、国の有形文化財に指定されている。
カレーを食べているので、一番安い鮭料理7品を注文した。それでも1,950円もする。テーブル席が満席だったため、座敷席になったが、ここのテーブルはサイズが小さくて、胡坐を組んだ足がテーブルの下に収まらなかった。そのため、体を前に折って食べるかんじになり、腹が圧迫されて不快だった。
料理が出される度に、こだわりの講釈がつく。
「コメ名人といわれる○○さんが作られた岩船産コシヒカリを土鍋で炊いたものでございます」
この講釈が鼻につくだけでなく、言うほど美味くはないのである。それでも、看板の塩引き鮭だけはさすがだと思った。塩引き鮭は、内臓を取り除いた鮭に塩をすり込み、軒先に吊るして低温発酵させたものである。もっと塩辛いものかと思っていたが、そんなこともなかった。
このあと、本家の「きっかわ」に行って、塩引き鮭を見学した。店の奥の天井から数え切れないほどの鮭がぶら下がっていた。一見生臭そうだが、不思議に臭いはまったく感じなかった。そういえば、吉永小百合の大人の休日俱楽部のCMでは店の軒下にも鮭をぶら下げていた。あれは多分演出に違いない。
喫茶店でバスの時間待ちをする予定だったが、店が潰れていた。おまけに、雨も降り出したので、諦めて歩くことにした。村上は観光地としてのインフラが実に脆弱である。
(完)
佐渡には酒蔵が5つあり、代表格が金賞蔵の尾畑酒造である。「真野鶴」は海外でも高い評価を得ている。23日に訪問し、いろいろ試飲したあと、「真野鶴 万穂(まほ)」を購入した。山田錦を30%まで磨いた純米大吟醸で、平成30年度の金賞受賞酒である。〆張鶴でもここまでやっている酒はない。
確かに美味かったが、個人的には宿根木の帰りに買った「至」のほうが好印象だった。「至」は逸見酒造の純米酒で、酒米は五百万石、精米歩合は60%である。クオリティでは「真野鶴 万穂(まほ)」の足元にも及ばない。でも、喉越しは「至」のほうが良かったのである。
酒の良し悪しは喉越しだと思っている。口の中で転がした後、流れるように喉を通る酒がいい酒であって、飲み込む感じになる酒はあまり好きではない。金賞受賞酒なのに喉越しの悪い酒というのは意外に多い。よくよく考えてみれば、酒の品評会の利き酒は、口に含むだけで飲み込まずに吐き出してしまう。つまり、喉越しは評価されていないのである。
記:2020年3月