ページトップボタン

2021年2月

鹿児島


鹿児島までのJALウルトラ先得を購入したのが昨年の3月。新型コロナの国内感染者数が3千人を超え大騒ぎになっていた頃である。あれから1年経って状況は大きく変わった。国内感染者数は40万人を超え、死者の数も7千人を超えた。1日だけで感染者が3千人を超えることも珍しくない。1年前の大騒ぎが滑稽に映る。

昨年の12月14日、新型コロナウィルスの感染拡大により、GoToトラベルの全国一斉停止が決まった。3密やステイホームを呼びかけて、感染拡大を防ぐべきときに、税金を使って外出を促していたのだから、めちゃくちゃだ。もっと早く停めるべきなのに決断できず、「決めるのは地方だ」と責任転嫁する始末。内閣支持率が大きく低下したため、決断せざるを得なくなった。無能な政府による人災である。

遅ればせながら、1月7日に緊急事態宣言が発出された。鹿児島は対象外とはいえ、この時期の旅行は後ろめたさがある。5人のうち2名はキャンセルし、残り3名は強行を選択した。コロナ禍の鹿児島旅行である。


2月13日(土)10:00
鹿児島は曇り空

鹿児島空港は曇り空、前日まで晴天続きだったことを考えると何とも間が悪い。レンタカーはトヨタの小型セダン、カローラアクシオ。3人だから軽自動車でもよかったのだが、山道であおられたくなかったので、馬力に余裕のある小型車にした。

桜島フェリー乗り場までは九州縦貫自動車道を使う。鹿児島北ICで降りればもう鹿児島市街地である。インターを降りてから少し道を間違えたが、ほぼ予定通りフェリー乗り場に到着した。この頃には天気も回復してきた。

今回のレンタカー
オリックスレンタカー鹿児島空港店のカローラアクシオ


2月13日(土)11:00
桜島フェリー

係員に誘導されて車ごと乗船。対岸の桜島までは15分の船旅である。そのまま車で過ごす人もいるようだが、こちらは旅行者なので船室に移動した。

デッキから見る桜島は噴煙も識別できないほどの厚い雲に覆われていた。

フェリーの中に「やぶ金」という名前の立ち食いそば屋がある。下船したらすぐ昼食の予定だが、名物なので食べてみることにした。


天ぷらそばを注文、値段は600円。そばも天ぷらも特筆するようなものではなかったが、つゆは美味かった。しかし、600円は高すぎる。300円ぐらいが妥当なところだ。

フェリーの運賃は桜島で支払うシステムになっている。高速道路のような料金所があり、そこで車と3人分の運賃2,350円を支払った。

やぶ金のかけうどん
M君が注文、450円


2月13日(土)11:30
珍満

食事処は「道の駅桜島」のレストハウスと「珍満」の2件しかない。前者は観光客用、後者は地元民が利用する町中華である。「珍満」にはデカ盛りだがそれほど美味くないという口コミがあった。どちらにするか迷ったが、フェリーでそばを食べているので、値段の安い「珍満」にした。

珍満の店内
店の中は意外に広く、綺麗で、先客が1組だけいた


注文したのは、ミニかた焼きそば(600円)、チキン南蛮定食(950円)、海老フライと生姜焼き定食(880円)の3品。

確かに量は多いが、デカ盛りというほどでもなく、それに普通に美味かった。食べ終わる頃には、地元民で満席になっていた。

珍満のミニかた焼きそば
M君が注文、ミニでこの量


2月13日(土)12:00
大正の大噴火

珍満を出ると、桜島の外周を時計回りに、大正の大噴火で埋没した黒神埋没鳥居へ向かった。

桜島以北の鹿児島湾は姶良カルデラという大昔の噴火跡で、カルデラの外壁が崩れて海とつながったらしい。地下には巨大なマグマ溜りがあり、桜島はその外輪山にあたる。大正3年(1914年)の大噴火では約30億トンの溶岩が流出し、島の中心地であった横山・赤水集落を埋没させ、東側に流出した溶岩は海に流れ込み、大隈半島が陸続きになった。


2月13日(土)12:30
黒神埋没鳥居

海岸線を離れ内陸部に入ると民家はほとんど見かけなくなった。すれ違う車もなく雑木林に囲まれた道を走っていると、唐突に小学校が現れた。周りに家はなく、生徒は何処から通ってくるのか不思議に感じた。小学校を過ぎると視界が開け、桜島火山がはっきり見えた。このあたりは黒神ビュースポットといい、昭和21年の噴火の際に溶岩の通り道になった場所である。再び、雑木林に囲まれ、今度は中学校が唐突に現れた。黒神中学校である。

黒神ビュースポット
溶岩が流れてから約70年、殺伐とした景色が広がります


黒神埋没鳥居はもともと3mの高さがあったが、大正の大噴火による火山灰で一夜にして埋まってしまったらしい。

この史跡をはさむように、黒神中学校の校舎と体育館が建設された。開校は昭和22年3月、昭和噴火の翌年である。建設現場のすぐ横を溶岩が襲ってきたが、高台にあったため難を逃れた。小学校も同様である。その代わりに、この学校に通うはずだった生徒の家が焼き尽くされてしまった。数奇な運命をたどった中学校だが、2020年から休校になっており、廃校は時間の問題のようだ。


2月13日(土)12:40
旅の里火山展望台

桜島には活発な噴火口がふたつある。昭和21年の噴火でできた昭和火口と南岳山頂火口である。2009年以来、ほとんどの噴火は昭和火口で発生していたが、2017年10月を最後に爆発していない。今活発なのが南岳山頂火口で、2020年だけでも221回の噴火があった。

黒神埋没鳥居の先に展望所が3か所ある。最初に現れるのが「旅の里火山展望台」で、昭和火口が真正面に見える展望台だが、お土産屋の中を通らないと行けないようになっている。この日は休業しており、展望台入口と書かれた所にもシャッターが降りていた。これではどうしようもない。


2月13日(土)13:00
有村溶岩展望所

大正溶岩原に作られた展望所で、全長1キロの遊歩道も整備されている。南岳山頂火口と昭和火口を横から見ることができ、火山活動の胎動を間近で感じることのできる場所である。

他の場所はともかく、ここだけは晴れて欲しかった。ゴゥーという鳴動も聞こえるという話だったが、それもなかった。あわよくば噴火に遭遇し、末代までの自慢話にしたいと密かに期待していたのだが、すべて肩透かしに終わった。


2月13日(土)14:00
湯之平展望所

北岳の西側斜面の4合目付近に作られた展望所で、海抜373メートル、一般の人が入ることの出来る最高地点になる。

視界の悪い山道を延々と登り続け、やっと視界が開けた思ったら、そこが湯之平展望所の駐車場だった。360度が見渡せる場所なだけに風も強かった。ここでも山容は確認できなかったが、西側の眼下には穏やかな錦江湾と鹿児島市の街並みが見えた。


薩英戦争の説明書きがあった。

「1863年、イギリスの戦艦7隻が生麦事件の賠償を求めて錦江湾に侵入したが、薩摩がこれに応じなかったため、鹿児島城下に砲弾を撃ち込んだ。薩摩もよく応戦しイギリス艦隊を撃退したが、近代化の遅れを痛感し、敵に勝つには敵から学べとイギリスに留学派遣する契機になった。」 

そんなことが書かれていた。ここから日本の近代化が始まったのかと思うと、妙に感慨深かった。


2月13日(土)14:20
道の駅 桜島

桜島フェリー乗り場に戻った。フェリーの出航時間までは少し時間があるので、近くにある道の駅に行った。ここで売られている「桜島小みかんソフトクリーム」が観光客に人気だ。値段は250円、ソフトクリームというよりもシャーベットに近かった。

お土産売り場で、桜島大根の漬物や切り干し大根が販売されていた。大いに食指が動いたが、ここで買っても荷物になると思い断念、空港のお土産屋で買うことにした。しかし、空港では売っていなかったのである。あの時買っておけばとひどく後悔した。


2月13日(土)16:30
錦江楼

鹿児島港から指宿までは約1時間の道程である。指宿に近づくにつれ天気が悪くなってきた。

今宵の宿は「こらんの湯 錦江楼」。以前は「指宿簡易保険保養センター」という名前で営業していたが、不採算施設の整理で、2007年3月閉鎖された。それを鈴木商店が買い取り、「錦江楼」という名前で、2008年10月に再オープンした。HPは高級旅館風になっているが、もともとが簡保の宿なので、簡単にステータスは上がらない。しっかりリニューアルされていて、古さは感じなかった。


部屋は「錦江湾を望むシャワーブース付き和室10畳」。3階の部屋なので、前の道路の電線が視界に入り、素晴らしい眺望とはいかなかった。また、10畳の部屋は3人で泊まるには十分だが、5人では狭かったかもしれない。

温泉はやや熱めの気持ちのいい湯だった。お肌のキメを整えるメタ珪酸が高濃度で含まれいて、肌がツルツルになるという。確かに、手のひらがテカテカになった。

雰囲気のある露天風呂
独立した建屋になっている


食事処へは密を避けるために15分間隔で案内された。しかし、夕食が15分で終わるわけがないので、あまり意味のないシステムだった。

料理は「鹿児島産黒豚しゃぶしゃぶ付き薩摩創作和会席」。席に着くと、目の前に豚バラ肉が2枚置かれていた。「豚しゃぶって、これか」と少し腹がたった。その後出てくる料理も特に豪華なものはなかったが、味はとても良かった。

食事の様子
マスク持参の食事風景


2月14日(日)09:00
JR西大山駅

翌朝は、時折小雨が交る前日以上の悪天候。開聞岳のビュースポットを2か所回るが、この天気では素晴らしい眺めは望むべくもなかった。

JR西大山駅は、1960年の開業以来長らく日本最南端の駅だったが、沖縄にゆいレールが開業したため、日本最南端ではなくなった。赤字でJRの文字を加筆し、「日本最南端の駅」になった。

9時10分に指宿行きがやってきた。開聞岳を背景にしたキハ40は本当に絵になる。キハ40は老朽化のため次々と引退し、現役車両は少なくなった。指宿枕崎線の車両にも赤さびが目立つ。


JR西大山駅には「幸せの鐘」がある。大切な方の幸せを祈りながら、願いの数だけ鐘を鳴らすのと、幸せを呼び込むことができるのだとか。

試しに、ひとつ鳴らしてみたら、驚くほど大きな音がした。まわりは畑しかないとはいえ、願いの数だけ鐘を鳴らすのはかなりの迷惑行為のような気がした。

JR西大山駅の普通入場券
指宿駅で購入できる。1枚170円。


2月14日(日)09:40
長崎鼻

列車を見送った後、長崎鼻に向かった。長崎鼻は薩摩半島の最南端にある岬で、海越しに開聞岳の山容を眺めることができるビュースポットである。それは晴れていればの話で、この日は残念としかいいようがない。

竜宮伝説発祥の地と言われていることから、縁結びの神様を祀る龍宮神社があり、ハートをかたどったモニュメントがあり、突端の灯台を「恋する灯台」と呼ぶ。少女趣味すぎないか。

恋する灯台
灯台の下の岩場では磯釣りが楽しめます


岬に向う道沿いには土産物屋や飲食店が9軒並んでいる。その中に「ナニコレ珍百景」で紹介された「夫婦喧嘩で休み店」がある。1軒でもシャッターを下ろしているとさびれた印象を与えてしまうため、少しでも笑えて楽しめるようにと、休む際には必ず言い訳看板を掲げているというもの。

この日は営業しているにもかかわらず看板を出していた。


2月14日(日)10:20
砂楽

長崎鼻から指宿市街地に戻り、砂蒸し風呂で有名な砂楽に行った。2階の受付で浴衣とタオルを借りて、1階のロッカーで着替える。裸に浴衣を身にまとい、砂むし場まで歩く。浴衣1枚でも寒くはなかったが、公道をこの姿で歩くことには多少抵抗があった。

「砂楽」には波打ち際と海岸に2つの砂むし場がある。ガイドブックなどで見かける波打ち際の砂むしは、大潮等の干潮時、気候も砂の状態も良い日だけらしい。ほとんどの旅行者は海岸の屋根付き全天候型砂むし場を利用することになる。


「砂かけさん」と呼ばれる係の人が砂を掘って準備している。砂はズッシリと重く、手や足がドクドクと鼓動を打ち出した。砂の温度は50度前後と聞いていたが、それほど熱くはなかった。砂むしは10分程度が目安と言われたが、時計がないから確認できない。10分以上は寝ていたように思う。

脱衣所で浴衣を返却し、かけ湯で体についた砂を洗い流す。奥にシャワールームもあったが、水しか出なかった。隣接する温泉に5分ほど入浴して終了。滞在時間は50分ぐらいだった。


2月14日(日)13:30
牛かつ ぎゅう太

指宿から鹿児島市内に戻った。早く戻りたくて指宿スカイラインを使ったのだが、濃霧のためスピードが出せず、大した時間短縮にはならなかった。

昼食は加治屋町近くの「牛かつ ぎゅう太」。人気店らしく、13時を過ぎているのに、店の前には人だかりができていた。少し待ってから、店内に案内された。


注文したのは、牛かつ定食8切れ 1,280円。一切れが割りばしの幅ぐらいしかなく、トンカツのミニチュアを見ているようだった。これを醤油、わさび、岩塩、フライドガーリックなどで味を変えながら楽しむようになっているのだが、一切れが小さいので、肉の味がよく分からなかった。

にもかかわらず、そんなに悪い印象を持たなかったのが不思議だ。


2月14日(日)14:20
加治屋町

加治屋町は西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛など歴史的英傑を多数輩出した所で、司馬遼太郎は「明治維新から日露戦争までを一町内でやったようなものだ」と述べている。

「維新ふるさと館」には、当時の遺品や写真などが多数展示されているものだと思っていたが、そうした物はわずかで、ほとんどがパネル展示と人形劇だった。まるで小説「飛ぶが如く」の要約を読んでるようで、早々に退散した。


西郷隆盛の生家跡は「維新ふるさと館」の駐車場の前にあり、大久保利通の生家跡は「維新ふるさと館」の隣にある。NHK大河ドラマ「せごどん」は、史実を無視して、西郷と大久保を隣同士にしたり、島津斉彬に下級武士と相撲をとらせたり、ロシアンルーレットで藩主禅譲を迫るなど、あまりにも荒唐無稽で、途中から見るのをやめてしまった。


2月14日(日)14:50
大久保利通像

「維新ふるさと館」から少し歩いたところに大久保利通の銅像がある。鹿児島では「西郷さんを裏切った敵」として嫌われていた。西郷隆盛像が没後50年を記念して建立されたのに対して、こちらは没後100年である。しかも、この場所は通勤のサラリーマンがよく通る場所で、「朝から不愉快なものを見せるな」と反対意見も多かったそうである。この像が建立されてから40年が過ぎたが、いまでも鹿児島県民は大久保嫌いなのだろうか。


2月14日(日)15:20
鶴丸城跡

緊急事態宣言のせいで、観光の目玉だった「仙巌園」が2月末まで臨時休業になってしまった。しかたがないので、2020年に御楼門が再建された鶴丸城跡に行った。

ここは平城で天守閣もなく、石垣は低く、堀は浅い。先祖代々島津家で、外敵に攻撃されることなど想定していなかったのである。海にも近かったから、薩英戦争ではイギリス艦隊の砲撃を直接浴びる羽目になった。


明治6年(1873年)に本丸が火事で焼失し、4年後の明治10年(1877年)には二之丸が西南戦争で焼失してしまった。遺構としては本丸の石垣・堀・庭園しか残っていない。雰囲気は悪くないが、見所が少ない。

本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館などが建っている。私学校のあった北側厩跡は鹿児島医療センターになっている。御楼門の近くに、大河ドラマ「篤姫」の2年後に作られた天璋院篤姫の像がある。


2月14日(日)15:30
西郷隆盛像

御楼門から徒歩5分ぐらいのところに西郷隆盛の銅像がある。生誕50年を記念して建立されたものだ。

上野の西郷隆盛像が建立されたのは明治30年(1898年)。西南戦争で賊軍として散った西郷の軍服姿像を皇居近くに建てることには反対意見が多く、いまの筒袖姿になったという。西郷の妻はこれを見て、「うちの人はこんな姿で外を歩いたことはない」と憤慨したらしい。

そんなこともあって、ここの西郷さんには軍服を着せている。


2月14日(日)15:30
城山

鶴丸城の裏手にある城山トンネルの手前を左に登っていけば西郷洞窟、右に下れば西郷隆盛終焉の地になる。

城山は高さ107mの小さな山だが、急峻で複雑な地形に加え、照葉樹の密林が政府軍の攻撃を防いだくれたらしい。山の中腹に11の洞窟を堀り、西郷のいた第一洞が遺跡として残されている。ただの横穴で、ここで寝起きしていたとは、とても信じがたい。


最後の日、西郷と薩軍は洞窟を出て、山を下り、政府軍の包囲網を突破したが、傷つき、私学校の裏手で絶命した。

城山公園展望台を目指して、急な坂を登った。駐車場のすぐ裏手が展望台だった。ここから鹿児島市内が一望できる。桜島はこの日も厚い雲に覆われていた。
(完)

打ち上げ
バスチカ 地鶏の鶏善、コロナのせいか空いてました


鶴丸城の御楼門の背後にある桝形石垣に無数の銃弾跡が残っている。西南戦争の時のものだというが、にわかに信じがたかった。島津久光の居城に政府軍が発砲するようなことがあるのだろうかと思ったのである。

調べてみると、明治4年の廃藩置県で島津久光親子は城を明け渡していた。明治10年、西郷率いる薩摩軍3万が東京目指して出兵すると、その留守をついて、政府軍が海から鹿児島に入り、旧城、私学校、城山を占拠した。西郷軍の退路を絶つためである。結局、西郷軍は熊本までしか進めず、田原坂の大敗後、敗走を繰り返し、鹿児島に戻った時には兵の数はわずか370人になっていた。しかし、それでも果敢に急襲をかけて旧城、私学校、城山を奪還し、陣を張った。それを政府軍7万が取り囲み、集中砲火を浴びせたのである。石垣の銃弾跡はそのときのものだった。

島津久光はそのときどこにいたかというと、桜島に避難していたそうである。納得。


記:2021年2月