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2022年2月

滋賀


昨年秋、2回目のワクチン接種率が70%を超えたあたりから、目に見えて感染者数が減少した。集団免疫を実感した出来事だった。海外ではオミクロン株による感染再拡大が問題になっていたが、日本の年末は実にのどかだった。それなのに、年が明けると日本国内でもオミクロン株の感染が広がり始め、1月4日には久しぶりに感染者が1000人を超えた。それからわずか2週間で感染者は3万人を超え、青空天井のような様相になった。あまりにも急激な変化に脳がついていけなかった。感染はさらに拡大し、1月末には累計感染者数が400万人を超えた。日本国民の30人に一人が感染したことになる。

感染者数推移

今年の温泉旅行は、延暦寺と三井寺、仏教の聖地を巡る旅である。こんな状況下で遠方に旅行するなど正気の沙汰ではないのに、誰からも辞めようという意見は出なかった。慣れというのは恐ろしい。マスク一枚でこの驚異から逃れられるはずもないのに、2年間感染しなかったことで、どこか他人事のようになっていた。


2月11日(金)06:30
新幹線はガラガラ

京都へは新幹線を使い、小田原で4人と合流することになっていた。茅ヶ崎から小田原に向かう東海道線の中で、S君から「寝坊しました」のLINE。「またか...」、彼には前科があった。「のぞみ」で追いかければ京都で合流できるのに、面倒くさくなったのか、ドタキャンしてしまった。

新幹線はガラガラで、危機感のない馬鹿な連中は我々だけだった。京都でレンタカーを借り、渋滞することなく、予定通り三井寺に到着した。

今回のレンタカー
7人乗りシエンタだが4人が限界


2月11日(金)09:00
三井寺仁王門前

三井寺の正式名称は「円城寺」、天台寺門宗の総本山と説明されている。「天台宗じゃないのか?」、素朴な疑問である。調べてみると、天台宗は、円仁と円珍の2人の高僧が死去すると、円仁派と円珍派が対立。比叡山は円仁派が占め、円珍派は山を降りて三井寺に入った。以後、円仁派を山門派、円珍派を寺門派というらしい。

両者は事あるごとに対立し、三井寺は幾度も焼き討ちにあっている。小規模なものまで含めると50回を超えるというから凄まじい。焼かれっぱなしの三井寺だったが、織田信長がここに本陣をおいて、比叡山焼き討ちを行った。延暦寺が武装解除されたことで、これ以降焼き討ちにあうことはなくなったものの、創建時の文化財はほとんど残っていない。


2月11日(金)09:10
三井寺金堂

建造物の代表が国宝の金堂で、三井寺の総本堂である。仁王門から境内に入ると前方に見える。坂の上にあるので一際大きく感じるが、正面にまわるとそれほどでもない。

本尊の弥勒菩薩は絶対秘仏、厨子の中で1300年以上安置され、誰も見たことがないという。パンフレットには「天智天皇が信仰されていた霊像」と説明されていた。

金堂の御朱印
「弥勒仏」と書かれている


金堂は豊臣秀吉の正室・北政所によって再建された。取り潰したのは他ならぬ秀吉である。1595年、秀吉は突如、三井寺の闕所(けっしょ、寺域の没収)を命じ、堂塔はまたたく間に解体された。死の直前に闕所が解除され、北政所が中心になって再建したということらしい。

堂内は土足厳禁で靴を脱がなければならない。前日に大雪が降っていたのでブーツを履いていた。靴を脱ぐのが面倒くさくてならなかった。


金堂の前に燈籠がある。三井の晩鐘で知られ、荘厳な音色は「日本の残したい音風風景百選」にも選ばれている。一突き800円。御朱印代300円が含まれているが、少々高い。どうしようか迷っていると、他に突く人がいた。近くで聞き耳を立てていたが、特別な音色には聞こえなかった。それで、釈迦堂の御朱印だけもらうことにした。

釈迦堂の御朱印
「釈迦如来」と書かれている


2月11日(金)09:30
光浄院と勧学院(特別拝観)

国宝の建造物としては、金堂のほかに光浄院客殿と勧学院客殿がある。書院造の初期の形式を伝える極めて貴重な建築だという。ともに特別拝観になっていて、予約制でガイドが付く。ガイドがいなければ、何も分からぬまま、10分ぐらいで見終えてしまうような小さな建物である。

光浄院の客は武士である。客が座る上座を明るく照らしたり、畳や天井の向きを垂直に並べて遠近感を強調するなど、客を視覚的に引き立てるような工夫がされている。また、「一の間」と「二の間」は障壁画で飾られ、「一の間」の床の間に描かれた滝の水は、左手の「上段の間」の障壁画へと続き、そして「上段の間」の奥に広がる庭園の池に流れ込む。障壁画と実際の庭園を一体化させた構図になっている。

...そんな説明を受けた。なかなか面白い。


勧学院は少し離れたところにある。こちらの客は僧侶で、外観は光浄院客殿とよく似ているが、内部の構成は若干異なっている。「上段の間」がなく、「一の間」の壁一面が床の間になっている。南側にも部屋があり、奥に行くほど私的な空間になるのだという。また、「一の間」と「二の間」に描かれている障壁画は狩野派によるもので重要文化財。光浄院の障壁画も重要文化財だが、こちらのほうが状態がいい。


2月11日(金)11:30
三井寺観音堂

勧学院の参拝を終えると時間はすでに11時を過ぎていた。このあと1時間の座禅体験を予約していたが、11時半には三井寺を出発する計画だから、キャンセルするしかない。座禅体験の場所だった観音堂を参拝してから、三井寺を後にした。

向かうのは琵琶湖汽船の今津港、13時10分発の竹生島クルーズに乗船する予定だ。11時半をかなり過ぎており、昼食の時間はもうない。乗船時間にギリギリ間に合うかどうか、際どい状況になった。


2月11日(金)13:30
延暦寺東塔

鶴喜そば延暦寺大講堂店

琵琶湖西縦貫道路に入ると大渋滞。大津から坂本までは慢性渋滞らしい。乗船時間に間に合わないのは明白なので、急遽予定を変更して、延暦寺に行くことにした。雄琴ICで琵琶湖西縦貫道路を出て、比叡山ドライブウェイに向かった。朝は凍結で規制が入る道だが、この時間は普通タイヤでも走行可能な状態だった。とりあえず東塔の駐車場まで行って、遅い昼食を取ってから参拝することにした。

比叡山そば
山菜蕎麦に天かすとおぼろ昆布をトッピング


2月11日(金)13:50
根本中堂

境内はまだ雪がかなり残っていて、足元に気をつけながら、根本中堂に向かった。根本中堂は、比叡山全域を境内とする延暦寺の中で、文字通り根本を担う総本堂である。現在のものは織田信長による比叡山焼き討ちの後、江戸時代初期に建てられたものであるが、天台様式と呼ばれるその建物は、密教建築の基本形を表すものとして貴重であり、国宝に指定されている。

根本中堂の御朱印
「醫王殿(いおうでん)」と書かれている


根本中堂は平成の大改修中で、建物は素屋根ですっぽり覆われていた。2021年が開祖・最澄が死んで1200年目の大遠忌にあたることから企画されたらしい。工事期間は平成28年から約10年間、改修費用は50億円だという。

参拝は可能だが、中に入るとそこは工事現場、鉄パイプの足場が所狭しと組み上げられていた。ここも土足厳禁、本当に面倒くさい。主に屋根の改修なので、内陣は普通に参拝できると思っていたが、そこにも鉄パイプの足場が組まれていた。不滅の法灯は確認できたが、やや興ざめだった。


根本中堂の前にある高い石段の先に文殊楼がある。比叡山の総門の役目を果たす重要な楼門だが、冬は危険なのか、通行禁止になっていた。根本中堂が改修工事中なのは知っていたが、文殊楼の通行禁止は想定外。損した気分になった。

ところで、境内の至る所で見かける「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」という最澄の言葉。その意味は、「どんな立場に置かれてもベストを尽くす人はかけがえのない人である」。 … なかなかできないことである。


2月11日(金)14:10
法華総持院

根本中堂を後にして次に向かったのは、比叡山で最も標高の高いところに位置する阿弥陀堂である。ここに登るまでの坂道と石段はかなりの苦行で、息が上がって、阿弥陀堂の前で暫く座り込んでしまった。

阿弥陀堂は、1937年(昭和12年)に比叡山開創1150年大法要を記念して建立されたもので、滅罪回向の道場だという。 「南無阿弥陀仏」を唱えて、ご先祖様の追善供養を営む場所みたいだ。


阿弥陀堂の隣にあるのが、1980年(昭和55年)に再建された法華総持院東塔。建物としては、こちらのほうが重要である。

最澄は、国家安泰、仏法興隆、国民安楽を祈念するための拠点にと、全国6箇所に宝塔(六所宝塔)を建立した。そのうちの一つが法華総持院東塔で、信長の焼き討ちから400年ぶりに再建されものである。他の5か所の宝塔は現存せず、場所も定かでないらしい。


2月11日(金)14:30
延暦寺西塔

西塔に移動した。釈迦堂に向かう参道の途中で、「親鸞聖人ご修行の地」と書かれた碑を見つけた。親鸞は浄土真宗の開祖である。

仏教(法華経)では厳しい修行の末に悟りを開くとされている。親鸞は比叡山で20年も修行したにもかかわらず悟りを開くことができなかった。そこで、「南無阿弥陀仏」をひたすら念じることで、阿弥陀様に救ってもらおうと考えた。厳しい修行をしなくても、酒池肉林に溺れても、最後は阿弥陀様がなんとかしてくれる、それが浄土真宗だ。ちなみに、我が家は浄土真宗大谷派(東本願寺)である。「一隅を照らす」には程遠い。


2月11日(金)14:40
にない堂

西塔の本堂である釈迦堂の手前に、渡り廊下でつながった二つの堂がある。右が法華経を教える「法華堂」、左が念仏を教える「常行堂」で、両堂を合わせて通称「にない堂」と呼ばれている。法華経と念仏が同等に扱われている。

天台宗では、朝のおつとめは「南無妙法蓮華経」を、夕方のおつとめでは「南無阿弥陀仏」を唱える。法華経と念仏を顕教といい、その他に密教の教えもある。教えが沢山ありすぎて矛盾しないのかと思うが、いろんな人間がいるからそれでいいのだそうだ。

 


「にない堂」では、親鸞も行ったであろう厳しい修行が今も行われている。常坐三昧は、90日間、坐禅し続ける行。常行三昧は、90日間、念仏を唱えながら本尊阿弥陀如来の周りを歩き続ける行で、どちらも2度の食事と用便、沐浴以外は休むことも眠ることも許されない。

ブラタモリで常行三昧の様子を紹介していた。「意識が飛んだまま歩き続けるので壁にぶつかる」とか言っていた。それでも、ちゃんと修行すると目の前に仏様が現れるらしい。


2月11日(金)14:50
釈迦堂

釈迦堂は延暦寺に現存する最古の建物で、もとは三井寺の金堂だったものを秀吉がここに移築した。ご本尊は釈迦如来である。

またしても土禁、本当に煩わしい。西塔の御朱印は3種類あり、ここで全ての御朱印がもらえる。最澄の御廟がある浄土院の御朱印「阿弥陀如来」をもらおうとしたら、「ここの御本尊はこちらですよ」ときつい調子で言われた。あがらうこともためらわれ、釈迦堂の御朱印「大雄殿」を書いてもらった。

釈迦堂の御朱印
「大雄殿」と書かれている


2月11日(金)17:00
須賀谷温泉

横川の参拝は時間的に無理なので、西塔を出発すると須賀谷温泉に向かった。大津まで戻り、名神高速道路で長浜まで行って、そこからは一般道を使った。宿のHPには「ようこそ、秘境 須賀谷温泉へ」と書かれているが、秘境感はまったくない。また、「お市の方が湯治した古の名湯」とも書かれているが、これも眉唾くさい。源泉の温度は18度程度の規定泉で、沸かして使用している。こんな時期なのにほぼ満室で、何故か人気がある。


泊まった部屋は、バス・トイレ付きの和室12畳。よくあるタイプの和室で、窓からの景色が良いわけでもない。風呂も狭くて、10人も入れば窮屈になる。おそらく、人気の理由は料理なのだろう。「お市の舞」と名付けられた会席料理は、上品な味付けで、とても美味しかった。接客も丁寧で、つまるところ、良い宿というのはこれにつきる。

お市の舞
夕食のお品書き


2月12日(土)09:30
長浜港

昨日キャンセルした竹生島クルーズに再挑戦することになった。今津港ではなく、長浜港から琵琶湖汽船の竹生島クルーズに乗船する。出航時間は10時10分で、長浜港までは車で30分の距離である。朝9時にチェックアウトし、いつもよりも遅い旅立ちになった。乗船場に着いた時は客もまばらだったのに、出航時間にはほぼ満席で、予想外の盛況だった。

観光船
琵琶湖汽船 竹生島クルーズ


2月12日(土)10:40
竹生島

竹生島までは30分である。港に降りると、切り立った崖に張り巡らされた朱色の階段が目にとまった。これを登るのかと思ったら憂鬱になった。実は、これは降りる階段で、登る階段は別にあった。それは、心が折れそうなくらいの急な石段だった。息も絶え絶えに登り切った先に宝厳寺の本堂があった。

祈りの階段
本堂へ続く165段の石段


2月12日(土)11:00
宝厳寺

竹生島には宝厳寺と竹生島神社がある。かつては寺と神社を全部含めて「宝厳寺」と称されていたが、明治元年の神仏分離令によって二つに分けられた。現在も別法人のままで、両者は渡廊で繋がっている。宝厳寺の本尊は大弁才天で、江島神社、 厳島神社と並んで日本三大弁天のひとつ。また、観音堂は西国三十三所第30番札所で、本尊は千手観世音菩薩。なかなか由緒ある寺院らしい。

宝厳寺の御朱印
「大悲殿」と書かれている


大弁才天が祭られている本堂を参拝したあと、国宝の唐門に移動。これは、秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた極楽門を豊臣秀頼の命により移築されたもので、桃山様式の「唐門」の代表的遺構なのだという。修復を済ませたばかりなので、色鮮やかで豪華絢爛だ。

唐門をくぐると、秘仏・千手観音立像が安置されている観音堂、その先の渡廊・船廊下を抜けると、竹生島神社になる。


2月12日(土)11:30
竹生島神社

本殿は国宝で、豊臣秀頼が伏見城から移築したと言われている。主祭神は宝厳寺と同じ大弁才天。神仏分離後もこれだけは変わらないみたいだ。

本殿の屋根から結構な量の雪解け水が流れ落ちていた。濡れないように注意していたが、避けられなかった。

船廊下
秀吉の朝鮮出兵に使われた日本丸の船櫓を利用


拝殿には琵琶湖に面し、突き出した所に竜神拝所がある。ここでは土器(かわらけ)に願い事を書き、湖面に突き出た宮崎鳥居へと投げ、投げたかわらけが鳥居をくぐれば、願い事が成就するとも言われている。挑戦するつもりでいたのだが、肝心のかわらけが売っていなかった。入口のところでしか買えないらしい。宝厳寺に戻らなくても、竹生島神社から入口へ通じる参道がある。あろうことか、この日は通行止めになっていた。心残りだが、諦めるしかなかった。

竹生島神社参道
竹生島港と神社を結ぶ参道


2月12日(土)12:40
ぶぶあん

竹生島から長浜港に戻る船の中で昼食の店を探した。「焼鯖そうめん」が滋賀名物だと知って、長浜港の近くにある「ぶぶあん」に行くことにした。老夫婦が二人で営んでいる店で、少し混み合っていた。「少し待てますか」と丁寧な口調で聞かれ、「大丈夫です」と応えたが、ご主人は待たせているのが気になってしょうがないようだった。しばらくして、部屋に案内された。

「焼鯖そうめん」は、焼いたサバを甘辛く煮込み、その煮汁でそうめんを茹でた郷土料理。待っている間、食べログの口コミを読んだ。料理のことより、老夫婦のことが沢山書かれていた。とても評判がいい。10分ほど待って、「焼鯖そうめん」が出てきた。おかみさんから、「よくぞお待ちいただききました、おおきに」。思わず笑ってしまった。「焼鯖そうめん」は想像したとおりの味で、美味しかった。

焼鯖そうめん
長浜のおもてなし料理の定番


2月12日(土)15:40
金閣寺

あとは京都でレンタカーを返却するだけだが、少し時間があるので金閣寺に寄り道した。中学の修学旅行以来で、その時の印象は強烈だった。

50年ぶりの金閣は唐突に目の前に現れた。こんな見え方はしなかったはずだ。間近に見えるまで、随分歩いたような記憶がある。それに、もう少し黒ずんでいた。今見る金閣はまばゆいぐらいに光り輝いている。それがかえって安っぽく見えてしまう。いい思い出は、いじらないほうがいい。
(完)

京都駅で打ち上げ
京都のうまいもんとおばんざい 市場小路 JR京都伊勢丹店


山形県の山寺(立石寺)には2回行っている。2回とも本堂の参拝をスルーしてしまった。1度目は混雑していたため、2度目は雪に埋もれていたためだ。1015段の石段や奥の院、五大堂に気を取られ、先を急ぎ過ぎたことが悔やまれてならない。

立石寺は天台宗寺門派の開祖・円仁によって開山された寺で、延暦寺がモデルになっている。本堂を根本中堂と呼び、延暦寺から不滅の法灯も分灯された。このことが後年大きな意味を持つ。
延暦寺の根本中堂にある不滅の法灯は、1200年間一度も消えることなく輝き続けている灯火とされているが、織田信長の比叡山焼き討ちの際に消え去っている。ところが、立石寺にバックアップがあったのである。そして、延暦寺根本中堂の再建後に立石寺から再分灯された。時代を超えた聖火リレーのようだ。


記:2022年2月