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2023年2月

庄内


今年の旅行は鶴岡、酒田の庄内地方だが、ここに決めた経緯をよく覚えていない。昨年が仏教の聖地を訪ねる旅だったから、今年は修験道の聖地に行こうということだったのか。そのぐらいしか思いつかない。いずれにしてもその程度だから、直前になっても高揚感がなく、旅行計画もよく頭に入っていなかった。

1月末に、大寒波のニュースが連日トップで取り上げられるようになった。10年に一度の大寒波で、庄内空港行きのANAはすべて欠航、電車も動いていない。「今年はダメだな」と思った。2月になると大寒波の話はすっかり過去のことになり、暖かい日が続いた。「やっぱり行くのか」と思った矢先、東京に大雪のニュース。それも旅行の前日だ。当日は茅ヶ崎駅始発の東海道線に乗らないと飛行機の時間に間に合わないから、ダイヤの乱れは致命的だ。「結局、ダメか」と半ば諦めた。

幸い、東京の雪は大雪にはならず、すぐ雨に変わったこともあって、鉄道への影響はなかった。「しかたがない、行くか」、まるで仕事に行くかのような気分だった。


2月11日(土)08:30
庄内地方は晴天

ANAのスキップサービスが3月末で終了し、4月からはオンラインチェックイン方式に変更になる。これまでは、ANAのサイトから搭乗券をiPhoneのウォレットにダウンロードし、ゲートではその搭乗券のQRコードを読ませていた。4月からは、搭乗24時間前にチェックインしてからでないと搭乗券がダウンロードできなくなるらしい。大した問題ではない。

それよりも、空港の手荷物検査で靴の検査が加わったことのほうが問題だ。踝が隠れる靴は脱いでスリッパに履き替えなければいけない。それなのに履けるスリッパが無く、裸足で歩き回る羽目になった。腹が立ったので、帰りの庄内空港では靴を履き替えるのをやめたが、咎められることもなく通過できた。いい加減な検査だ。


庄内空港の気温は6℃、晴天。それほど寒くない。空港ビルの1階に降りる階段のところで、「庄内平野と生きる MAETA」と書かれた大きな看板が目にとまった。下の方に「米のうまいところに悪い人はあんまりいません」と書かれていて、思わず笑ってしまった。

いつものように空港でレンタカーを借りた。オリックスレンタカーで、車種はトヨタ・ノア。5人乗りのミニバンが無くなり、今回からワンボックスになった。車高が高いので乗り降りは少し億劫だが、車内は広くて快適だった。

MAETAの看板
米のうまいところに悪い人はあんまりいません


2月11日(土)09:30
玉簾の滝

最初の目的地は幹事M君お勧めの玉簾の滝。過去に行ったことがあるようだった。旅行サイトには「滝に向かう遊歩道は除雪されておらず、かんじきが必要になる」とか書いてある。気乗りしないが、しょうがない。

日本海東北自動車道で酒田みなとICまで行き、そこから庄内平野の田園地帯を鳥海山に向かってひた走る。しばらくして、山に囲まれるようになったが、まだ山道には入っていない。山道に入る手前に、玉簾の滝の駐車場があった。先客が1台、売店は雪に埋もれていた。


遊歩道は歩けるようになっていたが、やはり足元がおぼつかない。先人の足跡を踏み固めるようにして歩いた。神社の辺りが一番足元が悪く、滝はその神社の先にあった。気温が高いので氷爆にはなっていなかったが、高さ63mの直瀑は見応え十分だった。

弘法大師が神のお告げによって発見したと言い伝えられている。いわれのある霊地の滝ということで、かつては修験道の滝行が行われていたらしい。言われてみれば、厳かな雰囲気がある。


2月11日(土)11:00
最上川舟下り

玉簾の滝から最上川舟下りの乗船場(戸沢藩船乗場)に向かった。

最上川舟下りは最上峡芭蕉ライン観光という会社が運営していて、2011年10月に乗船した経験がある。その時はまだ秋だったので、船の屋根は骨組みだけでビニールは張られていなかった。途中で雨が振り出し、慌てて屋根からビニールを下ろした記憶がある。覚えているのは、対岸の神社の鳥居と滝の景色、何度が遭遇した激流くらい。だから、屋形船のように船中で食事をするほうが楽しいと思い、船中弁当を幹事に提案したのだが、誰も同調してくれず、断念。

秋の舟下り
2011年10月の最上川舟下り


乗船場に着いたのは出航時刻の10分前で、慌ただしく船に乗り込んだ。前回と違い、屋根はビニールで覆われ、窓も取り付けられていた。加えて、コロナ対策のアクリル板。これでは、反対方向の景色は楽しめない。船内は暖房が効いていてとても暖かい。テーブルはコタツになっていたが、雰囲気だけで、あまり意味がないように思えた。

船頭は、年の頃なら70前後、民謡自慢の岸昭夫さん。何曲が披露されたが、確かに素晴らしい声だった。しかし、唄以外のガイドは至って退屈だ。話題は「おしん」のことばかりで、30年も前のテレビドラマをまるで昨日のことのように話す。ついていけなかった。


2月11日(土)13:00
手打ち蕎麦しげ庵

山形県のラーメン店の数は817軒で、人口10万人あたりの店舗数では全国1位らしい。そのラーメン激戦区の人気店のひとつに「琴の」という店がある。昼食はここを予定していたが、13時を過ぎているのに30分待ちだという。諦めて、近くの手打ち蕎麦屋に入った。「しげ庵」という店だった。

広い店内に先客が1組だけいた。蕎麦は「ダッタンそば」と「田舎そば」があり、「田舎そば」の「せいろとえび天ぷら」を注文。値段の割に量も多く、味も普通に美味かった。食べログの評価は3.16、口コミも概ね好意的だ。空いていたのは「琴の」の近所のせいかもしれない。

しげ庵の手打ち蕎麦
せいろとえび天ぷら


2月11日(土)14:00
出羽山五重塔

羽黒山五重塔への参道は除雪をしていなので、近くの「いでは文化記念館」で長靴を借りる必要がある。そこまでしなくてもという気持ちから予定にいれなかった。ところが、道を間違えて「いでは文化記念館」の前に偶然来てしまった。来てしまったからにはということで、長靴とストックを借りて、行ってみることになった。

羽黒山参詣道の入り口にある赤い山門が随神門、ここから先は神の領域になる。門の先の延々と続く狭い下りの石段が危ない。所々アイスバーンになっていて、注意しないと下まで転げ落ちそうだった。石段を下り、赤い神橋を渡ったその先に、国宝・羽黒山五重塔が杉の大木の間に見えてきた。


明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽三山神社となり、山内の寺院や僧坊はほとんど取り壊された。五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教建築の1つで、神仏分離以後は大国主命を祀り、出羽三山神社の末社となっている。

現在の塔は、約600年前の室町時代に、大宝寺城主の武藤氏による再建と伝えられている。経年劣化で色落ちしたのかと思っていたが、もともと彩色を施さない素木造りという伝統的な手法によるものらしい。屋根は日本古来の柿葺きで、今年の4月から数年掛けて吹き替えを行う予定になっている。五重塔の全景を見るにはいいタイミングだったようだ。

五重塔の御朱印
随神門の近くの社務所で貰える


2月11日(土)15:30
出羽三山神社

随神門の近くの社務所で五重塔の御朱印を貰ってから、あらためて羽黒山の出羽三山神社に向かった。

出羽三山は、月山・羽黒山・湯殿山の総称である。羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)とされ、出羽三山への参拝は、現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」として日本遺産にも認定されている。古くから修験道を中心とした山岳信仰の場として知られており、今でも多くの修験者が集まっているらしい。だから、法螺貝を持った白装束の山伏にごく普通に出会えると思っていたのだが、そんな奴は一人もいなかった。


三山の山頂には神社がある。月山、湯殿山の神社は冬季は参拝できないため、羽黒山には3社の神を併せて祀る三神合祭殿がある。ここを参拝すれば三神をお参りしたことになるとされている。

それなのに、三神合祭殿も雪に埋没し、参拝はおろか近づくことさえができなかった。これでは何のためにここまで来たのか、憤懣遣る方無い。せめてもの記念に、社務所でお守りと御朱印帖を買ったものの、どうにも悔いが残った。


2月11日(土)16:30
鶴岡市内

致道博物館

庄内平野の二大都市が鶴岡市と酒田市で、ともに人口は10万人と少ないが、それでも山形県では第2、第3の都市である。鶴岡市は庄内藩主酒井家の城下町で、鶴岡城跡付近はきれいに整備されている。高い建物がないせいで、空が大きく感じられた。

出羽三山神社の次はここにある致道博物館に立ち寄る予定だった。酒井家の御用屋敷だったものを博物館として公開したもので、国指定重要文化財の旧西田川郡役所や、多層民家、旧鶴岡警察署庁舎など、歴史的建築物が移築されている。五重塔見学を入れてしまったため、時間的に厳しくなり車窓から眺めるだけになってしまった。


2月11日(土)17:00
あつみ温泉

たちばなや

あつみ温泉は、温海川のほとりに7件の温泉宿がある小さな温泉街で、共同風呂や足湯などの施設も整備されている。冬でなければ浴衣姿で温泉街を散策できたかもしれない。

「たちばなや」は創業370年の老舗で、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」の総合20位。宿泊した部屋は、10畳の和室と広縁の他に、掘炬燵が付いた4畳半の和室が用意されていた。夕食中に布団が敷かれてしまうため、夕食後の部屋飲みができない。この4畳半はとても気が利いている。

掘り炬燵の和室
夕食後の部屋飲みスペース


浴室は広く、湯は熱めで気持ちよい。残念だったのは夕食だ。本ズワイガニ、のど黒姿焼き、寒鰤大根、鮑の陶板焼き、山形牛のカツレツなど高級食材を使った料理が並ぶが、期待したほど美味くない。また、従業員が少ないのか、途中で料理も酒も出てこなくなった。高級旅館ではありえないことだ。朝食は内容もサービスも申し分なかった。

朝、玄関には大型バスが停車に、ロビーでは中国人の団体客が大きな声で朝礼をしていた。夕食のサービスが悪かったのは、こちら対応に従業員がとられたせいかもしれない。


2月12日(日)9:30
加茂水族館

加茂水族館は、あつみ温泉から車で1時間、日本海に面した岬に立っている。クラゲの展示で有名になり、今では年間50万人が訪れる庄内地方屈指の観光スポットである。到着したのは10時前だったが、結構混み合っていた。

順路に従って見学をする。小さな水槽に庄内地方沖に生息する魚の展示が続き、これが意外に面白い。やがて、クラゲの展示が始まる。最初は可愛く感じられたが、進むにつれ、グロテスクになってくる。最後は大きな丸い水槽に無数のミズクラゲが浮かぶクラネタリウムに出る。写真などでよく紹介される場所だ。


最近は、沖縄の「美ら海水族館」のように巨大な水槽に巨大魚が泳ぐ展示が主流だが、それとは一線を画し、巨大水槽がなくても十分面白かった。

レストランで「クラゲ入りソフトクリーム」を注文したら、黄色い粒がまぶされたソフトクリームが出てきた。クラゲはここでしか食べれないもののように錯覚していたが、中華料理で普通に食べていることを思い出した。

クラゲ入りソフトクリーム
クラゲは食感だけで味はない


2月12日(日)11:00
山居倉庫

加茂水族館から山居倉庫までは車で30分。最上川を渡ると急に市街地になり、唐突に山居倉庫の駐車場が現れた。

山居倉庫は1893(明治26)年、旧庄内藩主・酒井家が建設した米保管倉庫で、2021年3月には国史跡に指定された。最上川と新井田川の中洲にあり、船運が主力の時代には米の集積・保管に最適な場所だった。12棟が現存し、そのうち9棟が最近まで現役の米倉庫として使われていた。残りのうち1棟は「庄内米歴史資料館」、2棟が「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽」として改装され、一般に開放されている。


写真でよく見る風景は倉庫の裏で、三角屋根に黒い板壁、緑の欅並木がとても絵になる。新緑の頃が一番美しく、今の時期は寒々としていた。裏から倉庫の外を回り、表に出る。表の姿も悪くない。特に、川の対岸からの景色は北前船で賑わった頃の雰囲気がよく残っている。

山居倉庫は、倉庫内の温度・湿度を一定に保つために当時の技術の粋を尽くして建てられた倉庫で、欅の木も西日や強風から倉庫を守るためのものだった。とは言え、現代の保管技術には比べるべくもなく、中を覗くと最新の冷蔵設備が設置されていた。

山居倉庫の中
冷蔵設備の操作盤が見える


「庄内米歴史資料館」は休業中だったが、「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽」には入ることができた。目を引いたのが「おしん」の人形ギャラリー。また「おしん」だ。原作者の橋田壽賀子は山居倉庫に来て、米1俵で売られていく少女の話を思いついたのだとか。

橋田壽賀子もここに来るまで山居倉庫のことを知らなかったのだから、当時は一般には知られていない場所だったようだ。「おしん」のお陰で日本だけでなく海外でも知られるようになったのだから、「おしん」に拘るのも無理はない。

おしんギャラリー
おしんの生まれた家


2月12日(日)11:30
本間家旧本邸

山居倉庫から本間家旧本邸までは徒歩10分。本間家は北前船で財を築き、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの豪商だった。三井、三菱のように財閥化することなく、財の多くを土地につぎ込み、日本一の大地主と言われた。それが仇となり、戦後のGHQによる農地改革で持てる土地のほとんどを失い、没落した。この家は1768年に建てられたもので、昭和20年まで暮らしていた。

「意外に小さい」というのが素直な印象で、豪華な調度品の展示もなく、肩透かしを食らったようなかんじだった。太宰治記念館 「斜陽館」には及びもしない。


2月12日(日)12:00
相馬樓

本間家旧本邸から相馬樓に移動。今回色々提案した中で、唯一採用されたのが相馬樓での昼食だった。

相馬樓の前身は、江戸時代から200年続いた酒田を代表する料亭「相馬屋」。平成7年(1995年)に閉店した翌年の平成8年(1996年)に国の登録無形文化財に指定された。相馬屋の廃業後、地元の平田牧場が買い取り、平成12年(2000年)に「舞娘茶屋 相馬樓」として開業した。館内の土蔵には京都から北前船で運ばれてきた雛人形などの展示物などがあり、竹久夢二の美術品も鑑賞することができる。

相馬樓の受付
舞妓さんが対応してくれる


舞妓懐石(5,500円)を事前予約。到着すると、建物2階にある大広間の演舞場に案内され、既にお弁当が用意されていた。治郎兵衛という地元の割烹料理屋からお取り寄せで、ご飯と味噌汁以外は冷えている。さながら駅弁ようだが、不味くはなかった。

舞妓茶屋と謳っているように、喫茶だけで料亭の営業はしていない。演舞の実演も1日2回だけで、16時には閉店になる。

舞妓懐石
治郎兵衛御調整


食事を終えると、酒田の観光ビデオを見せられた。その後、舞妓さんが登場し、舞妓演舞が始まった。短い演舞を3曲観賞したあと、記念撮影をして閉宴。最後に舞妓さんから千社札がプレゼントされた。舞妓さんとのふれあいは20分ぐらいで、その後は自由に館内を見学した。

非日常という意味では、今回の庄内旅行で相馬樓が一番面白かったかもしれない。
(完)

千社札
財布に入れておくと幸運が訪れるとか


修験道とは、日本古来の山岳信仰に仏教や神祇信仰、陰陽道が習合して形成された日本独自の宗教。平安時代に成立し、やがて天台宗本山派と真言宗当山派の二大派閥が出来た。明治政府の神仏分離令により神仏習合の修験道は禁止され表舞台から姿を消したが、戦後に復活。本山派は聖護院を中心とした本山修験宗に、当山派は醍醐寺を中心とした真言宗醍醐派になり、これに天台系の金峯山、修験本宗を加えた三派が修験の主流になっている。羽黒山はこれに属さない羽黒派古修験道として存続している。

新日本風土記で「出羽三山」の信仰の世界を取り扱っていた。


白装束で山に入るのは修験者だけではない。山麓の農家が雪深い春の月山に登り、五穀豊穣の祈りを捧げる伝統行事が今も行われている。また、出羽三山信仰には講という先祖代々の信仰集団があり、夏には列をなして三山を参拝する。そして、行く先々で白装束に大きな御朱印を押して貰う。

こうしてみると、我々の五重塔参拝は如何にも無作法だった。白装束は無理にしても「おしめ」ぐらいは着けてもよかった。「おしめ」とは首にかける白い布のことで、社務所で借りられる。もっとも、参拝目的で五重塔に行っていないことのほうが問題かもしれない。


記:2023年3月