
2024年2月
我々5人の温泉旅行も最近はパワースポット巡りみたいになってきた。年を取ってお迎えが近くなると、人間誰しも信心深くなるらしい。今年はついに伊勢神宮と熊野三山である。来る所まで来たという感じだ。
2024年は「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコ世界遺産に登録されて20年目にあたる。ここで言う霊場とは、修験道の「吉野・大峯」、密教の「高野山」、熊野信仰の「熊野三山」を指す。熊野信仰というのが分かりにくいが、一言でいうと、神仏集合信仰と浄土信仰が一体になったようなもの。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、熊野三山を巡れば浄土に行けるという信仰が人々を熊野に駆り立てたらしい。
2月17日(土)9:00
起点は南紀白浜
中辺路(なかへち)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道で、熊野古道のひとつ。その起点になるのが南紀白浜である。南紀白浜空港の到着ロビーではご当地キャラに出迎えられた。左端が白浜町の「しらぺん」、右端が観光協会の「くえどん」である。ゆるキャラブームが去って久しいのに「まだこんな事をやっているのか」と思ったが、それなりに受けていた。
空港ではM君が待っていた。昨年の秋から石川県の酒蔵で働いており、現地で合流することになった。いつものボサボサの髪は短く刈り込まれ、どうやら蔵人に長髪は許されないらしい。1月1日に能登で大きな地震があり、輪島市や珠洲市は壊滅的な被害を受けた。M君の働く酒蔵は加賀市にあるので直接被害はなかったものの、従業員には被災者がいたらしい。遠くの出来事が身近に語られることに不思議な気がした。
レンタカーは今回もトヨタ・ノア。熊野に移動する前に30分ぐらい時間を割いて白浜町を巡るつもりだったが、これといった名所がない。せめても国の名勝に指定されている円月島だけでも見に行くことにした。円月島は通称で、正式名は高嶋という。空港から海沿いを10分程度走ると見えてきた。夕焼けの名所ということだが、この時間は誰もいなかった。今にも降り出しそうな厚い雲の下では少し見映えが悪かった。
2月17日(土)10:40
熊野本宮大社
白浜町から熊野本宮大社までは車で1時間40分の距離である。朝霧が立ち込める何もない山道を延々と走り、時折、小さな集落が現れる。熊野川が見える辺りから交通量が増え、川沿いを上流に少し走ると熊野本宮大社があった。車は和歌山県世界遺産センターの駐車場に停めた。予想に反して人はまばらだった。
参道には熊野大権現の奉納幟が山のように立てられていた。権現とは仏教用語で、仏が神の姿で現れることを意味する。外来の仏様が日本固有の神様を支配するというのがこの時代の神仏習合だった。明治になると神道国教化の方針から神仏分離が行われ、神社から仏教的なものが排除された。建物や仏像は破壊しても考え方までは変えられなかったようで、熊野大権現のように今も神仏習合信仰は健在だ。「苦しい時は神様に救いを求め、死んだら極楽浄土へ行けるように仏様にすがる」、日本人は実に都合のよい生き方をしている。
境内の至るところに八咫烏のシンボルが飾られている。
八咫烏(やたがらす)は日本神話に登場する三本足の烏で、神武天皇を樫原宮に導いた熊野の神の化身と言われている。日本サッカー協会が八咫烏をシンボルマークにしたのは、神武天皇を樫原宮に導いたように、日本をワールドカップに導き、優勝させていただきたいという願いがこめられている。
手水舎の八咫烏は確認できたが、黒いポストの上に乗った八咫烏は見損なった。ちょっと残念。
2月17日(土)11:00
上四社
神門の先が本殿になる。神様は12柱いて、それぞれに社殿が作られている。第一殿から第四殿までを総称して上四社、第五殿から第八殿までを中四社、第九殿から第十二殿までを下四社という。神門の先は熊野本宮大社の上四社である。
本殿は撮影禁止と聞いていたが、SNSやブログなどに掲載しなければ撮影してもよいことになっていた。また2月24日に、世界遺産登録20周年を記念して、横綱照ノ富士の奉納土俵入りをやるらしく、土俵作りが行われていた。
檜皮葺きの古色蒼然とした社殿の中央にあるのが第三殿、本社になる。主祭神の家都美御子大神(スサノオ)を祀ってある。本社の左は第一殿・第二殿の相殿で、牟須美神(イザナミ)、速玉之神(イザナギ)の夫婦神が、本社の右の第四殿には天照大神(アマテラス)がそれぞれ祀られている。
願い事は唯一つ、昨年の夏に発症した耳鳴りの完全治癒である。今より良くなれば、「それは神様のおかげ」。もし悪くなっても、「この程度で済んだのは神様のおかげ」ということになる。神頼みを否定したらもう希望がない。
2月17日(土)11:20
大斎原
熊野本宮大社の旧社地という大斎原に移動した。遠そうに見えたが、歩いて数分の距離だった。
大斎原は、熊野川・音無川・岩田川の3つの川が合流する中洲だったということだが、今とは川の形が違うようだ。およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台などがあり、現在の数倍の規模だったらしい。明治22年(1889年)8月の洪水により、社殿の多くが流されてしまい、現在の熊野本宮大社は、流失を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・再建したものである。
流失した中四社・下四社は再建されることなく、石造の小祠が建てられ、残りの8柱はここに合祀されているという。そもそも神様には姿形がなく、社殿の中には何もない。だから、この石造の小祠に神が宿っているといえばそれで成立しまうらしい。
跡地には巨大な鳥居が建てられている。2000年に建てられたもので、大きさは日本一だという。田んぼの中にポツンとそびえ立つ大鳥居、Googleマップで見たときも異様に感じたが、直接見た印象も気味が悪いだけだった。
2月17日(土)12:00
ご当地感のない昼食
昼食は、車で5分ぐらいのところにある「めはり本舗」と決めていた。ところが行ってみると閉店していた。それも廃屋に近い状態だったから、随分前に閉店したようだった。
昼食はここ一択だったから、突然の昼食難民になってしまった。世界遺産センターの近くに手打ちうどん屋があったことを思い出し、そこに行ってみることにした。めはり寿司はこの地方の名物だからその店にもあるような気がしたが、期待虚しく、あったのは普通のおにぎり。結局、かけ蕎麦ときつねうどんのご当地感の全くない食事になった。
2月17日(土)13:00
熊野速玉大社
次は熊野速玉大社、45分の距離である。熊野川沿いの山道をひたすら走るものの、ナビの到着時間10分前になっても山道のまま。ナビの設定を間違えたかと不安になった。新越路トンネルを抜けると景色が一変、急に都会になった。目に飛び込んできたのはローソンの看板、続いてすき家、それから車のディーラー。程なく、山を背にした熊野速玉大社の鳥居が見えてきた。
予定通り、参拝者駐車場に車を停めた。車はそこそこ停められていたし、観光バスも停車しているのに、人はほとんどいない。一体、どこに消えてしまったのか。
本殿には横一列に12の社殿が建てられ、熊野本社本宮と同じ熊野十二所権現が祀られている。主祭神は熊野夫須美大神(イザナミ)と熊野速玉大神(イザナギ)の夫婦神である。朱色も鮮やかな社殿は1968年(昭和43年)に再建されたもので、もとの社殿は打ち上げ花火が原因で1883年(明治16年)に全焼してしまったらしい。写真撮影に関する規制もなかった。
ここでも、性懲りもなく耳鳴りの完全治癒を祈願。
帰り際に御朱印を頂いた。右が熊野本宮大社、左が熊野速玉大社の御朱印である。左はかなりの達筆だ。
熊野三山は今でこそ同じ神様を祀り一体化されているが、元々は違っていた。熊野本宮大社は熊野川を御神体とする信仰、熊野那智大社は那智の滝を御神体とする信仰、そして熊野速玉大社は神倉山の「ゴトビキ岩」を御神体としている。
T君から神倉山に登ってみたいとの申し出があったが、「ゴトビキ岩」にたどり着くには自然石で組み上げられた538段の非常に急で険しい階段を登らなければならず、即座に却下した。
2月17日(土)14:30
熊野那智大社
最後は熊野那智大社である。那智山の麓の大門坂駐車場まで30分。駐車場はほぼ満車の状態で、他の二社とは事情が違うようだった。通常はここから大門坂(熊野古道)を30分かけて登るのだが、自信がないのでバスで移動することにした。
バスの終点まではわずか7分。ここから先は歩かなければならない。那智大社までは467段の階段がある。最近膝痛が再発していたので、ここが登れるのか不安だったが、心配するほどでもなかった。登りきったところに那智大社の狭い境内があった。
御祭神は他ニ山は12権現だが、那智だけは瀧宮を加えて13権現になっている。主祭神は熊野夫須美大神(イザナミ)である。お詣りできるのは礼殿だけで、その先にある本殿には入ることは出来なかった。
礼殿の横に回ると三重塔と那智の滝の遠景が見れる。三重塔は昭和47年に再建されたものだが、あると無いとでは大違い、本当に絵になる。
2月17日(土)15:00
青岸渡寺
礼殿の裏には青岸渡寺の本堂がある。明治の廃仏毀釈を免れた建物で、見るからに古い。1590年の建物で、国の重要文化財に指定されている。参拝するつもりでいたが、先を行く人がスルーしてしまったので、しかたなく外観を見るだけに留めたが、ちょっともったいない気がした。
あとは那智の滝を目指して下るだけだが、ショートカットできる道が用意されている。不揃いの石を敷き詰めただけの登山道で、歩きにくく、非常に疲れた。これなら遠回りしても車道をダラダラ歩いた方が楽だったかもしれない。
2月17日(土)15:30
那智の滝
那智の滝の入口の鳥居から先は結構な下り坂である。那智大社から下って来たのでさほど急には感じられなかったが、参拝を終えて帰る時、急な坂であることを思い知らされた。
那智の滝は、熊野那智大社の別宮、飛瀧神社のご神体として崇拝されてきた滝で、落差133m、滝壺の深さは10m、毎秒1tもの水が流れ、落差、水量共に日本一を誇る。実際に見る滝は流石の迫力だった。
熊野は修験者の聖地でもある。那智山全体には四十八の滝があり、1300年前から修験道の行者たちが千日間の滝行を行ってきた。明治政府により禁止されたが、昭和になって復活し、今も修行僧による四十八滝を巡る滝行は続いているらしい。滝行の実体は分からないが、一の滝である大滝に打たれながら読経する姿はちょっと想像できない。
300円払ってお滝拝所に入れば、より間近に滝が見られる。素焼きの酒坏が販売されていた。記念に買おうとしたら、T君が「昔はタダで貰えた」と話すので、馬鹿馬鹿しく思えてきて、買うのをやめてしまった。
ここでも最後に御朱印を頂いた。右が熊野那智大社の御朱印、左が那智飛龍神社の御朱印である。
坂を登って再び車道に出た。膝の状態が悪かったらバスで下山するつもりでいたが、大丈夫そうなので、バスの終点がある那智山観光センターまで歩いた。そこから大門坂を下ることになる。
歩いている途中で「めはり寿司」の看板が目に入った。おにぎりを塩漬けの高菜でくるんだもので、味は想像がつくが、昼食で食べそこねているので食べたくなった。残念ながら、時間が時間だけに、提供が終了していた。こうなると無性に食べたくなるから不思議だ。「目をみはるほど美味い」という説もあり、頭の中は「めはり寿司」でいっぱいになった。
2月17日(土)16:00
大門坂
熊野古道の写真でよく使われるのが大門坂である。中世の都の貴族があこがれた熊野への道の面影が最もよく残っているという。高さ50mほどある杉木立が両側に生い茂る石段が1kmほど続く。この薄暗い山道はどこまで行っても景色が変わらない。風光明媚な所が少しぐらいはあると期待していたが、何もなかった。30分かけて下り切ったもののただ疲れただけで、達成感はなかった。
この道は登らなければいけない道なのだろう。うっそうとした森の中を、両手に杖を突きながら、微かに見える空を励みに、果てしなく続く石段を一心不乱に登り、やっとたどり着いた時にだけ達成感が得られるのかもしれない。歳を言い訳に楽な方法を選択してしまったことを後悔した。
2月17日(土)17:30
ホテル浦島
この日の宿泊は那智勝浦のホテル浦島である。レンタカーを返却してから、ホテル浦島の送迎船乗場まで歩いた。送迎は船とバスがあり、時間帯によって分かれている。この時間は船だった。
途中でM君、T君とはぐれてしまった。送迎船乗場で待っていると、暫くして、手に「めはり寿司」を持ってやってきた。途中の寿司屋で購入したということだった。ようやくありついた「めはり寿司」、想像通りの味で「目をみはるほど美味い」ものではなかった。
乗船時間は10分もなかった。ホテルは海に突き出た丘の前に作られていた。それほど大きなホテルには見えなかったが、中に入るとロビーにローソンがあり、受付の前には、空港の搭乗口のようなロープ・パーティションが設置されていた。館内放送で旅行代理店の名前が流れていたから、団体客がメインなのかもしれない。
館内の案内図を見ると、今いるのが本館で、この丘の周りに別館が3棟もあり、連絡通路で結ばれていた。この日の宿泊は日昇館という名前の別館だった。昭和感満載の館内を延々と歩いて移動する。日昇館にもフロントがあり、ここで部屋のキーをもらう。そこから部屋までも結構歩く。こんなに歩かされるホテルも珍しい。
部屋は太平洋を眼下に望む12畳の和室で、悪くはなかった。温泉は5ヶ所あり、そのうち2ヶ所が洞窟温泉である。微かに硫黄臭がする硫黄泉で、浴室の先端が露天になっているせいか、ややぬるめである。5ヶ所ある温泉のうち3ヶ所以上に入ると粗品が貰えるというので挑戦。粗品はホテル浦島の入浴剤だった。
食事は朝夕いずれもバイキング。熊野牛、本マグロ、なれ寿司、めはり寿司などの名物はなく、どこにでもあるような普通の料理が並んでいた。味もそれなりである。宿泊料金が1万8千円ぐらいだから文句も言えないが、多少高くてもご当地感のある会席料理のほうがよかった。
2月18日(日)9:00
伊勢へ
翌朝、伊勢に向かう。紀伊勝浦駅8時55発の特急南紀4号で松阪駅まで2時間半、近鉄山田線に乗りかえ、伊勢市駅まで14分の長旅である。いつものように、乗車するとすぐ酒盛りが始まった。酒はM君が働く鹿野酒造の山廃仕込純米酒、なかなか美味い。M君の仕事は酒米の移動で、醸造行程には関与していない。だから「俺の酒」とか言うなと釘をさしておいたのだが、「うちの酒」と言っていた。ギリギリ許される表現。
雨は本降りになった。
2月18日(日)12:00
外宮
伊勢市駅に着くと雨はやんでいた。伊勢神宮外宮までは直線で500mぐらい、徒歩5分の距離である。思ったよりも人は少なく、正午近いにも拘わらず、周辺の飲食店も混んでいる様子はなかった。
外宮の正式名称は豊受大神宮。御祭神の豊受大御神(とようけのおおみかみ)は天照大御神の食事を司る御食津神(みけつかみ)であり、天照大御神の神託によって、約1,500年前に鎮座したのが豊受大神宮だとされている。衣食住や産業の守り神で、開運招福、厄除け、農業・漁業の守護、産業振興のご利益がある。
境内は左側通行だが、宗教的な意味合いはなく、スムーズに参拝できるようにするための措置である。正宮まで来るとさすがに混雑していた。正宮は、国家の平和や世界平和など、公の願い事や神様への感謝をささげる場所とされている。耳鳴りの完全治癒などは筋違いなので、能登半島の復旧をお願いした。
別宮に向かう途中で激しい雨になった。雨の中の参拝は、傘を差したり畳んだりと煩わしい。風宮と土宮だけ参拝し、98段の石段を上った丘の上にある多賀宮はパスした。
2月18日(日)13:00
名物伊勢うどん
外宮の前から、内宮行きのバスに乗った。乗車にはICカードが必要でSuicaが使えた。何でもPayPayのM君はICカードと聞いて軽いパニックになったが、財布の中にSuicaがあることを思い出して事なきを得た。思えば、この後に起きるM君のドタバタはこれが始まりだったようにも思える。
内宮参拝の前に昼食を取ることにしていたので、神宮会館前で下車した。「おかげ横丁」にはここで降りたほうが近い。目指したのは伊勢うどんの名店「ふくすけ」である。人気店だけあって行列ができていた。
腰のないブヨブヨのうどんに真っ黒なツユ。ネットでも不味いという声が多く、経験者のT君も「食べたいと思わない」と言っていた。でも、そこは何事も経験だ。
かけうどん600円を注文。空いてる席に座るとすぐ出てきた。確かに腰はないが、ブヨブヨというほどでもなく、ツユも見た目ほど辛くない。普通に美味かった。また注文するかと聞かれれば、注文すると答えると思う。
2月18日(日)13:00
蘇るつらい思い出
混み合う「おはらい通り」を抜けて宇治橋の前に出た。ここに来るのは38年ぶりである。あの時の思い出が蘇ってきた。
会社の命令で「伊勢修養団」の3泊4日の研修に参加させられた。奉仕活動という名の清掃作業に、講話と瞑想。食事は残すことを許されず、周りに食べられない人がいれば手伝わなければならない。隣の女子が完食できず、歯型のクッキリついたトンカツを食べさせられた。最終日の夜はふんどし一枚で極寒の五十鈴川に飛び込む水行があり、殺されるかと思った。終えた後は殊勝になり、明日からは真面目に生きようとか思ったが、そんな誓いは半日も持たず、帰りの電車の中は酒盛りになっていた。
2月18日(日)13:00
内宮
38年ぶりに宇治橋を渡った。雨でも内宮は混み合っていて、正宮に向う人の列ができていた。途中に手水舎があるが、その先にある五十鈴川で手を洗い清めるのが昔からの参拝方法だという。川辺に行ってみると、雨のせいか水が濁っていて少し躊躇した。
さらに先へ進むと神楽殿がある。ここも混み合っていたが、御朱印の窓口が空いていたので、先に御朱印を頂くことにした。それが間違いのもとだった。
正宮の前まで来た時、M君がいないことに気付いた。暫く待ってみたものの一向に現れる気配がない。LINEで所在を確認したら驚いたことに宇治橋のところにいるという。御朱印を頂いた後、参拝を終えて帰る人の列についていってしまったらしい。普通はすぐ気付くはずだが、夢心地で歩いているので気付くのが遅いのである。
別行動にするともっと面倒臭い事になりそうな気がして、このままM君が来るのを待つことにした。「ここまで一人で来られないのではないか」と心配する声もある中、随分経ってようやく姿を現した。
正宮に祀られているのは言うまでもなく天照大御神である。2000年前からここに鎮座する日本人の氏神だ。それなのに、係員らしき男が正宮の階段の上から大声で怒鳴っていた。階段から上は撮影禁止だとか、参拝は並ばなくていいとか、空いているところからお参りしろとか、叫んでいる。神聖な雰囲気が台無しだ。急かされるようにお参りし、実に後味が悪かった。
右は外宮の御朱印、左は内宮の御朱印である。お粗末すぎて言葉にならない。
2月18日(日)14:30
赤福でお茶
参拝後は、赤福でお茶をするところまで計画していた。ただでさえ人の多い「おはらい通り」なのに、傘の花が咲いて、歩きにくいことこの上ない。やっと「赤福本店」に着いてみたら長い行列、考えることは皆同じだ。帰りの時間もあるので、隣の「五十鈴茶屋」に入った。ここにも赤福と抹茶のセットがあり、少し待っただけで席につけた。
伊勢市駅に戻り、15時54分発の名古屋行近鉄特急に乗車。名古屋までは1時間24分あり、例によって、酒盛りになった。これも間違いのもとだったかもしれない。
2月18日(日)17:30
名古屋で打上
打ち上げは名古屋駅太閤通南口から徒歩1分の「かぶらや総本家」という店にした。名古屋飯の居酒屋である。下品で、あまり美味くない料理が次々と出てくる。
宴もたけなわの時、M君のスマホが無いことに気付いた。スマホの紛失はこの上なく厄介で、この世の終わりのような雰囲気になった。落とす場所は限られている。電車の中で酔っ払って落とした可能性が一番高く、近鉄の落とし物係に電話してみると、運良く届いていた。ギリギリで世の中を生きのびているかんじだ。
こんな調子でも無事に終われたのは神様のおかげかもしれない。
(完)
熊野本宮大社で2月24日に行われた横綱照ノ富士の奉納土俵入りがニュースになっていた。
ことしの初場所で優勝した横綱 照ノ富士の奉納土俵入りは、田辺市の熊野本宮大社で行われ、境内にはおよそ600人が集まりました。照ノ富士は、はじめに、師匠の伊勢ヶ濱親方などと共に参拝して神事を行い、能登半島地震の被災地の復興を祈りました。このあと照ノ富士は、露払いと太刀持ちの力士を従えて三つぞろいの化粧まわし姿で奉納土俵入りを行いました。照ノ富士が腰を落とした状態から両手を左右に大きく広げながら体を起こしていく「不知火(しらぬい)型」の土俵入りを披露すると、集まった人たちからは拍手と歓声がわき起こっていました。照ノ富士は「もう二度と地震が起きないようにとの思いを込めました」と話していました。
奉納土俵入りは、世界遺産登録20周年の記念行事として行われた。映像を見ると、神門から本殿に入り、本社(第三殿)に向かって四股を踏んでいた。照ノ富士は大関昇進後に番付を大きく落としたが復活して横綱になり、けがによる3場所連続休場後の今年初場所でも優勝。「よみがえり、再生の地」といわれる熊野とうまく符号している。
記:2024年3月