
2025年2月
今年の旅行は、幹事の意向で九州ということになったが、九州の何処に行くのかまでは決まっていなかった。特に行きたい所もなく、強いて言うなら、2022年から始めたパワースポット巡りの延長で、太宰府天満宮と宇佐神宮ぐらいだった。果たして、出来上がった計画では、福岡空港から太宰府天満宮を経由して呼子に移動し、そこでイカの活き造りの昼食を取り、熊本・阿蘇経由で黒川温泉に入るというものになった。宇佐神宮は2日目に参拝する。ところが、12月になって宿の予約など計画の詳細を詰めてみると、熊本・阿蘇経由の移動は時間的に難しいことが判明し、呼子から来た道をただ引き返すだけというドライブ旅行のような話になった。こんなことなら、長崎から九州に入り、佐賀、福岡、大分、熊本の北九州横断にすれば良かったと悔やむことしきりだが、飛行機が予約済なので今さら変更もできない。そんなわけで、最初から残念な旅になった。
2月15日(土)9:30
北九州は曇り空
旅行直前にはこの冬一番強い寒波が最盛期を迎え、日本海側はすでに記録的な大雪になっていた。玄界灘を背後に持つ福岡や佐賀の様子も気になったが、東京とさほど変わりはなかった。時折雨がパラつく曇り空で、北九州はこの2日間、陽が指すことは一度もなかった。
福岡空港でレンタカーを借りた。今回はバジェットレンタカーで、車種はトヨタ・ノア。ミニバンの生産が終了したので、昨年からワンボックスを借りている。運転しやすいのかどうかは分からないが、助手席に載っている分には足元がゆったりしていて快適だ。
2月15日(土)10:30
太宰府天満宮
太宰府天満宮は福岡空港から車で約30分。西鉄大宰府線「大宰府駅」の西側に「大宰府駐車センター」という850台が停められる大型駐車場がある。少し遠いことと休日の駐車場事情がよく分からないので、徒歩10分ぐらいの所にある駐車場を事前に予約した。akippaという駐車場予約のサービスで、料金は1,170円。30分程度の駐車しては割高だが、駐車場を探してウロウロするのが嫌だった。実際到着してみると、この時間はまだ人もまばらで、駐車場も結構空きがあった。初めての場所で、心配しすぎたようだ。
駐車場からは裏道をしばらく歩いて三の鳥居の前に出た。この先には、頭を撫でると知恵を授かるという御神牛がある。驚いたことに、順番待ちの行列ができていた。日本人は何にでも並ぶものだと感心した。
太宰府天満宮の御祭神は、言わずと知れた学問の神様・菅原道真公で、全国約12,000社の天満宮の総本宮である。神社としては九州最大級の規模を誇る。印象としては、想像していたほど広くはなく、地元の寒川神社とそれほど変わらないように思えた。ただし、参道の賑わいや宝物殿など建物の多さを見るとやはり格が違う。
御神牛を左に曲がるとその先に心字池がある。心字池に架かる3つの橋は太鼓橋といい、過去・現在・未来という仏教思想の「三世一念」を表現している。橋を渡ることで心身を清めてから、御本殿へ参拝するのが作法らしい。
御本殿へと至る堂々たる佇まいの二重門は楼門。この門は太鼓橋側から見ると屋根が2層、御本殿側から見ると1層という珍しい形をしている。
楼門の先はさすがに混み合っていた。残念ながら御本殿は、令和9年に迎える「菅原道真公1125年太宰府天満宮式年大祭」記念事業の一つとして、124年ぶりの大改修中で、令和8年に完成予定だという。御本殿前には、藤本壮介という建築家による仮殿が建てられていた。相対するふたつの概念を融合した作品を得意としているらしく、人工物と自然の融合ということで、屋根に草木を植える奇妙な建物になっている。理解を超えている。
菅原道真が大宰府へ左遷されると、日頃から愛でてきた梅の木が主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという伝説がある。その「飛梅」は、樹齢1000年を超えるとされる白梅で、本殿前の右側に植えられている。例年この時期には満開のはずだが、今年は寒波の影響なのか、まだ蕾の状態だった。
参拝後、御朱印と健康守を入手。御朱印は達筆だった。駐車場に戻る道すがら、名物の「梅ヶ枝餅」を食べ歩き。これが意外に美味かった。
2月15日(土)12:45
呼子
太宰府天満宮から呼子までは車で1時間40分。呼子で一番の有名店は「河太郎」だが、事前予約は受け付けておらず、平日でも1時間待ちらしい。時間に追われる旅行者には難しく、その近くにある「漁火」を予約した。こちらも人気店である。予約しようとしたら、イカが不漁で確約できないので、1ヶ月前に改めて予約してくれと言われた。計画倒れになるのかと大いに心配したが、無事予約が取れた。
呼子は二度目である。実は、活き造りというのはあまり好きではない。魚の断末魔を見ながら食べて、何が楽しいのかと思っている。前回の時も、イカの表面に茶色の模様が信号のように点滅する姿を目の当たりにし、なんて趣味の悪い料理だと感じた。
「漁火」には20分遅れて到着。席に着くとすぐ料理が運ばれてきた。茶碗蒸し、イカ焼売、漬物、ご飯、お吸い物。テーブルの上がたちまちいっぱいになった。イカ焼売を食べ終わるのを待って、イカの活き造りが運ばれてきた。大皿にイカが3杯、これで5人前だ。小ぶりのイカ2匹はすでに絶命している。大きいイカは足を動かしていたが虫の息で、ほどなく動きを止めた。前回とは明らかに様子が違う。遅れて到着したから致し方ないが、捌いてから時間が経っているようだった。こうなると、イカの死骸を見ているような気分になるから不思議だ。
肝心のイカは少しも美味くない。コリコリしているのとは違う、ただ固いだけだ。正直、ガッカリした。後造りのゲソ天の方は、逆に柔らかくて美味かったが、これでは活き造りの意味がない。口コミを見ると「今まで食べた中で一番美味い」という投稿が多い。日が悪かったのかもしれない。
「漁火」は呼子港を見下ろす丘の上にあり、食後に呼子港まで移動した。時間は13時を過ぎており、観光客の姿は見かけなかった。呼子の朝市は日本三大朝市と呼ばれ、毎日7時から12時まで開催されている。先に呼子に行ったほうがよかったのではと、また一つ後悔が増えた。
2月15日(土)17:00
黒川温泉
呼子から福岡を経由して黒川温泉までは約190km、3時間の長距離移動である。北里柴三郎の生誕地で、新札発行で盛り上がる小国町を抜けたところに黒川温泉郷がある。阿蘇山の北、標高700mの不便な山間部だ。ここを流れる田の原川の渓谷沿いに、24軒の小さな和風旅館が立ち並ぶ。車一台がやっと通れるようなところが、今や全国屈指の人気温泉地なのだという。
「街全体が一つの宿、通りは廊下、旅館は客室」に見立てた、田舎らしい統一感のある景観作りが高く評価されているらしい。また、各旅館の露天風呂をはしごできる入湯手形でも有名になった。
今回の旅行まで黒川温泉のことは知らなかった。何故人気なのか、後から色々説明を聞かされても、今一つ得心できないでいる。
泊まった宿は、ここで最も古い「御客屋旅館」。噂どおりの狭い道で、カーブもきつく、アップダウンもある。おまけに、この狭い道を散策する観光客もいて、車が思うように前に進めない。宿に到着した時には少々ウンザリした。宿は斜面に建てられているようで、地下に風呂と食事処があった。
建物は古いが、綺麗に隅々まで磨き上げられているようなかんじだった。部屋はこれといった特長のない普通の和室。風呂も小さく、露天風呂は2つあるがどちらも外の景色が遮られ、内風呂とあまり変わらない。食事は、地味な会席料理だったが、とても美味しかった。
冬なので、浴衣姿で散策するようなこともせず、普通に泊まっただけだった。それでも、不思議に悪い印象が無い。多分、団体客がいないせいかもしれない。満室なのに他の宿泊客と出くわすことがほとんど無かった。あの秋田の秘湯、乳頭温泉鶴の湯でさえ、人でごった返していた。それを考えると、ここの静けさは別格である。
2月16日(日)9:00
大観峰
大観峰は阿蘇を代表する絶景スポットで、標高は約935メートル、天気が良ければ阿蘇の街並みや阿蘇五岳、くじゅう連峰までが一望できる。秋から冬にかけての早朝には、神秘的な雲海に出合えることもあるらしい。
遅い朝食を取って、黒川温泉を出発したのが9時頃。大観峰までは20km、車で30分だが、辺りには薄い霧が発生していた。ここよりも標高の高い大観峰が晴れているはずもないが、この霧が眼下の雲海ということもあると思い、とりあえず行ってみることに反対はしなかった。そんな淡い期待も虚しく、霧は濃くなる一方で、大観峰は完全な視界不良だった。
2月16日(日)11:30
宇佐神宮
黒川温泉から宇佐神宮までは約90km、1時間半の距離である。全国には約11万の神社があり、そのうち4万600社あまりが八幡宮で、宇佐神宮はその総本宮である。京都の石清水八幡宮は宇佐神宮から勧請した神社、鎌倉の鶴岡八幡宮は石清水八幡宮から勧請した神社で、この3社を三大八幡宮という。勧請とは分霊のことで、いくらコピーしてもご利益は変わらないという特性がある。全国の八幡宮の多くはこの3社が勧請元になっている。
宇佐地区は、宇佐神宮の鳥居前町ということだが、建物もまばらな普通の田舎道。そして、唐突に「宇佐八幡 有料駐車場」と書かれた大きな看板が現れた。雰囲気は、パチンコ屋のそれとあまり変わらない。11時を少し過ぎた頃で、駐車場は7割ぐらい埋まっていたが、境内は閑散としていた。
御朱印は参拝前に申し込み、参拝後に受け取るシステムになっていた。社務所に相当する神宮庁に御朱印帳を預けてから、御本殿のある上宮に向かった。想像以上に広大な境内である。
上宮は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座し、725年に造営された御本殿は国宝に指定されている。建築様式は八幡造と呼ばれ、2棟の建物を前後に連結させてひとつの社殿としている。左から順に一之御殿、二之御殿、三之御殿と呼び、それぞれ八幡大神、比売大神、神功皇后が祀られている。参拝は二拝四拍手一拝で行う。熊野本宮大社と出雲大社が一緒になったような感覚だ。
824年に造営された外宮は山頂から200m下ったところにある。建物の様式や御祭神は上宮と同じだが、ややこじんまりしている。 説明書きには、「古来より上宮は国家の神として、外宮は民衆の神として、皇室をはじめ民衆より篤い崇敬を集めてきた」と書かれていた。「下宮参らにゃ片参り」といわれているようで、古くから上宮と下宮の両方をお参りをするのが慣習だという。
神社のお参りでは、昔から「無病息災」が決まり文句だったが、今更「無病」というのも白々しいので、最近は素直に「病気平癒」をお願いするようになった。しかし、上宮、外宮で計6回も同じことを繰り返すのはやり過ぎの感がある。
帰り際に御朱印が記入された御朱印帳を受け取った。ここの御朱印もなかなかの達筆だ。仲見世商店街では名物の「宇佐飴」も購入した。麦芽ともち米で作った水飴を練った飴で、ここでしか販売されていないらしい。なんでも、宇佐神宮の祭神・神功皇后が息子の応神天皇に母乳代わりに与えた飴が起源であると伝えられているが、にわかに信じ難い。不二家のミルキーのように、舐めると歯にペタペタとくっつくが、ミルキーほど甘くはない。なんとも素朴な食べ物だ。
参拝時間は30分程度だったが、悠久の歴史を持つパワースポットなのに、どういうわけか厳かな印象がない。多分、境内に看板が多いせいかもしれない。
2月16日(日)12:30
昭和の町
宇佐神宮から昭和の町までは15分。豊後高田商工会議所の隣が専用の駐車場で、駐車場の前に展示施設の「昭和ロマン蔵」がある。その周辺の商店街が昭和30年代の町並みを再現した「昭和の町」ということらしい。過疎化ですっかり寂れてしまった商店街を、古いことを逆手に取って、「昭和の町」として再生したもので、いまでは年間30万人が訪れる観光地になった。
「昭和ロマン蔵」の中で最初に目についたのがダイハツ・ミゼット。他にも、ホンダライフやいすゞ117クーペも置かれていた。懐かしい車を見ていて、中学時代の出来事を思い出した。ある教師がスバル360を新車で購入し、時々学校まで乗ってきていた。土禁で、車内を応接間のように飾り立て、休み時間には自慢げに毛ばたきでホコリを払っていた。悲劇は、その教師が自分の人望を理解していなかったことで、愛車がボコボコにされるのにたいして時間はかからなかった。
展示施設がいくつかあり、「駄菓子屋の夢博物館」と「昭和の町夢町三丁目館」の共通券、900円を購入した。「駄菓子屋の夢博物館」は入口が駄菓子屋になっていて、その奥が有料の展示施設になっている。1960年代、70年代の玩具や雑誌が所狭しと置かれているだけで、説明らしきものは一切ない。見どころもよく分からず、なんとなく見て終わり。「昭和の町夢町三丁目館」は昭和30年代の民家や学校の教室を展示しているが、こちらも説明がなく、当時の生活感がよく伝わってこない。
昭和30年代は小学生、昭和40年代は中学生である。同じ時代の展示なのに感情移入できるものがほとんどない。当時熱中していたのは、王・長嶋の巨人、釜本・杉山のサッカー、鉄腕アトムや鉄人28号のアニメ、スロットカー、グループサウンズ、....。そのあたりの展示がほしいところだ。
昭和の町として再生されたのは、「昭和ロマン蔵」から少し離れたところにある「新町通り商店街」。そこをボンネットバスで周遊する予定だったが、3月中旬まで運行休止になっていた。しかたがないので、「駅通り商店街」を少し歩いてみたが、閉まっている店のほうが多かった。
「駅通り商店街」に学校給食を提供している「カフェ・バー ブルブァール」という店があり、そこで昼食をとった。「揚げパンと鯨の竜田揚げ」を注文、価格は税込み1100円。メニューにはポテトサラダがつくことになっているが、ついていなかった。揚げパンは、きな粉をまぶしたもので、甘すぎる上に大きすぎて食べきれなかった。フルーツポンチは缶詰。学校給食をかたる詐欺みたいな店だ。鯨の竜田揚げは、固くて、臭み消しの生姜の味がしなくてはならない。揚げパンは砂糖を少しまぶしただけで、指に油がつくぐらいのものが美味い。欲を言えば、牛乳も脱脂粉乳に変えてほしいぐらいだった。もう少しハマると思っていただけに、何もかも残念。
2月16日(日)15:30
門司港
昭和の町から門司港駅までは約100km、1時間半の移動になる。門司港駅周辺は、かつて国際貿易港として栄えた当時の面影を偲ばせる古い街並みが残っており、「門司港レトロ」の名前で観光地化されている。見てみたい建物がいくつもあったのだが、時間の関係で門司港駅だけになった。
門司港駅東口に到着したが、車を停められるところがなく、やむなく道路脇に一時停車。長時間は停められないので、サッと見てサッと帰る慌ただしいかんじになった。
門司港駅は、1988年(昭和63年)には鉄道駅舎として初めて国の重要文化財に指定された。2019年(平成31年)には、6年にも及ぶ復元工事を終えて、大正時代の姿に復元された。石造りのようにも見えるが、木造二階建てである。見所満載で、駅舎構内には九州鉄道の起点を表す「0哩(ゼロマイル)標」、洗面所には門司港に帰り着いた引揚者や復員兵が安堵の思いで喉を潤した「帰り水」や戦時中の金属供出から逃れた「幸運の手水鉢」などがある。
記念入場券を買いたかったが、残念ながら売り切れていた。今回の旅行は「残念ながら」が多すぎる。改札口からでも、「0哩(ゼロマイル)標」は確認できた。次は洗面所に行くつもりだったが、2階に登れる階段が見えたので、そちらを優先した。
吹き抜けのある貴賓用階段を昇ったところに旧貴賓室がある。大正時代に天皇陛下や皇太子が行幸啓で訪れた際に休憩所として使われたらしい。想像していたよりもこじんまりしていた。
旧貴賓室の向かいは「みかど食堂」というレストランだったが、2023年に閉店。今は旧食堂の看板がかかっていた。エレベータで1階に降りると、スターバックスの店舗になっている。こういうレトロな駅舎にはスターバックスがよく似合う。ドトールではこうはいかない。ここから洗面所に行けたのだが、車のことが気になって、すっかり失念してしまった。返す返すも残念。
2月16日(日)16:00
関門トンネル
関門トンネルは1958年(昭和33年)に開通し、トンネルの中は上下に区切られ、上は車道、下は徒歩で通行できるようになっている。人道トンネルの全長は780メートルで、トンネルの中ほどには福岡県と山口県の県境の標識があり、珍しい海底の県境として有名である。
ここに来てみるまで、こんなに古いものだとは思わなかった。確かに、壁など痛々しい箇所が散見され、老朽化が隠しきれない。1973年に開通した関門橋も50年を経過しており、新たなトンネルの建設が検討されている。ここを歩けるのはあとわずかかもしれない。
人道トンネルの両側エレベーターホールに設置している記念スタンプを両方押して、観光案内所等で提示し、アンケートに答えると「関門TOPPA!記念証」がもらえたらしい。事前によく調べておくべきだったと、ここでも後悔。
2月16日(日)17:30
小倉
小倉でレンタカーを返却し、「旬魚と旬菜 竹なか」という店で懇親会になった。「100分、飲み放題付12品、6000円」という格安コースで、フグ刺しも付いている。大皿で盛られたフグ刺しを期待したのだが、出てきたのは小皿に6枚程度盛られたものだった。5人分合わせても大皿の半分にも満たないが、この値段で致し方ない。
懇親会終了後、北九州空港への移動で一悶着あった。西鉄バスは、Suicaではなくクレジットカードのタッチ決済が可能になっていた。そんなことが出来るのかと、ワクワクしながらクレジットカードをかざしたのだが、読んでくれない。運転手から「そのカードにはタッチ決済に対応していない」と言われ、やむなく現金で精算した。後で調べたら、日本でタッチ決済といえばSuicaのような電子マネーが主流だが、世界はクレジットカードが主流で、日本でも最近普及しつつあるという。読めなかったのは自分だけ、一人だけ時代に取り残されているような気がした。
(完)
宇佐神宮の御祭神である八幡大菩薩は古くから源氏の氏神として信仰され、鎌倉の鶴岡八幡宮も11世紀後半に「源氏の守り神」として創建された。その勧進元は京都の石清水八幡宮とされているが、この辺りの事情は結構複雑なのである。
国道1号線の茅ヶ崎鳥井戸橋付近に大きな赤い鳥居がある。この鳥居をくぐると松並木が約1キロほど続き、その先に鶴嶺八幡宮がある。どこにでもあるような小さな神社だが、ここには驚くべき歴史がある。
長元3年(1030年)、河内源氏の二代目棟梁、源頼義が下総の乱鎮定のため関東に遠征した。戦勝祈願ために石清水八幡宮を勧進して建立したのがこの神社である。見事勝利を納めると、鶴嶺八幡宮より勧進して鎌倉由比郷に由比若宮を建立した。その後、河内源氏は没落するが、その末裔である源頼朝が再興し、鎌倉幕府を樹立する。そして、由比若宮を勧進して鶴岡八幡宮を建立した。
問題はこの後である。この鶴岡八幡宮は火災で消失し、現在の場所に再建された。その際、頼朝は、鶴嶺八幡宮ではなく、京都の石岩清水八幡宮からあらためて勧進したのである。このせいで、鶴嶺八幡宮は歴史の彼方に埋もれてしまった。憎っくきは頼朝ということになる。後年、頼朝は相模川にかかる橋から落馬し、これががもとで死んだといわれている。この時の橋の橋脚が茅ヶ崎で発見され、国の史跡に指定されている。茅ヶ崎を軽んじた頼朝に下された天罰かもしれない。
記:2025年3月